≪天国を行き交う人々★ラサへの旅【2−1】≫
2004年2月20日二
日差しの中ひとすじの陰りもないラサを歩いていると、心の中も格段に明るくなってくる。俗世間が覆い隠している暗い影の部分は、この高原の透き通って純粋な空気の中では雲散霧消してしまう。ずっと昔からあこがれていた神秘的なポタラ宮殿は吸い寄せられるほど青い空の下にあった。参拝にやって来るチベット仏教徒は山の麓に建てられた雄大壮観なポタラ宮殿に向かって五体投地して祈る。彼らの目は美しく明るく、敬虔さと一途さで輝いている。
どれだけの年月回されてきたかわからないマニ車(僧院本堂にあるマニ車は、「マニ・ラカン」といい、高さ2〜3メートル、直径3〜4メートルの大きなものまである)は、参拝者の手の油が染み込んで黄金に照り輝いている。チベット族は奴隷制社会から直接現代文明社会に入ってきたので、鉄道はもとより車も走っていない。だから彼らの大多数は未来への希望をこの回るマニ車に託す。ラサの至るところでこんなに多くの人たちがマニ車を回しているのも理解できなくはない。私は彼らの後についてマニ車を回し、口の中ではブツブツと真言を唱える。「オムマニペメフム」。この六字真言は六道衆生を解脱し、六種の煩悩を除き、六種の善行を修得し、六種の仏身を獲得し、六種の智恵を生む、ということを表している。回すときは必ず時計の針の方向に回す。地球が太陽の周りを回る方向と同じだ。寺院のマニ車と手に持つマニ車は同じ原理だ。どちらもそれでお経を回すのである。手に持つマニ車はどれも中にお経が入っている。チベット族の多くは字を読めない。それでお経を中に入れて回し、1回回すと1回お経を読んだことになる。ほんとうに想像もできないことだが、ゆっくりと聖地への道を進む途上、チベット族はいったい何回回すことになるのだろう。計算すれば、天文学的な数字になるだろう。彼らはこのように信念と理想を胸に、雪の積もる高原から途上ずっと祈りながら聖地ラサを目指すのだ。
written by 阿依黛
http://wind.yinsha.com/letters/show.phtml?aid=2004010612542301
参考サイト(画像と用語の解説を参考にさせていただきました)
http://www.tibethouse.jp/home.html
日差しの中ひとすじの陰りもないラサを歩いていると、心の中も格段に明るくなってくる。俗世間が覆い隠している暗い影の部分は、この高原の透き通って純粋な空気の中では雲散霧消してしまう。ずっと昔からあこがれていた神秘的なポタラ宮殿は吸い寄せられるほど青い空の下にあった。参拝にやって来るチベット仏教徒は山の麓に建てられた雄大壮観なポタラ宮殿に向かって五体投地して祈る。彼らの目は美しく明るく、敬虔さと一途さで輝いている。
どれだけの年月回されてきたかわからないマニ車(僧院本堂にあるマニ車は、「マニ・ラカン」といい、高さ2〜3メートル、直径3〜4メートルの大きなものまである)は、参拝者の手の油が染み込んで黄金に照り輝いている。チベット族は奴隷制社会から直接現代文明社会に入ってきたので、鉄道はもとより車も走っていない。だから彼らの大多数は未来への希望をこの回るマニ車に託す。ラサの至るところでこんなに多くの人たちがマニ車を回しているのも理解できなくはない。私は彼らの後についてマニ車を回し、口の中ではブツブツと真言を唱える。「オムマニペメフム」。この六字真言は六道衆生を解脱し、六種の煩悩を除き、六種の善行を修得し、六種の仏身を獲得し、六種の智恵を生む、ということを表している。回すときは必ず時計の針の方向に回す。地球が太陽の周りを回る方向と同じだ。寺院のマニ車と手に持つマニ車は同じ原理だ。どちらもそれでお経を回すのである。手に持つマニ車はどれも中にお経が入っている。チベット族の多くは字を読めない。それでお経を中に入れて回し、1回回すと1回お経を読んだことになる。ほんとうに想像もできないことだが、ゆっくりと聖地への道を進む途上、チベット族はいったい何回回すことになるのだろう。計算すれば、天文学的な数字になるだろう。彼らはこのように信念と理想を胸に、雪の積もる高原から途上ずっと祈りながら聖地ラサを目指すのだ。
written by 阿依黛
http://wind.yinsha.com/letters/show.phtml?aid=2004010612542301
参考サイト(画像と用語の解説を参考にさせていただきました)
http://www.tibethouse.jp/home.html
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