升堂入室(学問や技術がしだいに奥深い境地に達する)
2005年4月24日 連載 コメント (3)孔子の名は世間に広く知られ、弟子も非常に多い。その中のひとりに子路という名前の弟子がいた。性格は勇猛でさっぱりしていた。
あるとき、彼が“瑟(しつ)”という楽器を演奏していると、彼の琴の音が豪放勇武で草木も枯らすほどの殺気を帯びているのを聴き、「仁」と「中庸の道」を主張する孔子は子路に「そなたの琴の音は奔放すぎて私の弟子として似つかわしくない。」と言った。他の弟子たちは孔子の評論を聞き、その後は子路を尊敬しなくなってしまった。
孔子がそのことを知り、他の弟子たちが自分の言った意味を誤解していると思ったので、急いで子路のために弁解した。「子路の学問は宮殿に入れるほどのレベルだが、ただその奥の部屋へ入れるほどの境地には未だ達していない。そなたたちは決して彼のことを軽く見てはいけない。」他の弟子たちは孔子がこう言うのを聞き、子路への尊敬を取り戻した。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=188
あるとき、彼が“瑟(しつ)”という楽器を演奏していると、彼の琴の音が豪放勇武で草木も枯らすほどの殺気を帯びているのを聴き、「仁」と「中庸の道」を主張する孔子は子路に「そなたの琴の音は奔放すぎて私の弟子として似つかわしくない。」と言った。他の弟子たちは孔子の評論を聞き、その後は子路を尊敬しなくなってしまった。
孔子がそのことを知り、他の弟子たちが自分の言った意味を誤解していると思ったので、急いで子路のために弁解した。「子路の学問は宮殿に入れるほどのレベルだが、ただその奥の部屋へ入れるほどの境地には未だ達していない。そなたたちは決して彼のことを軽く見てはいけない。」他の弟子たちは孔子がこう言うのを聞き、子路への尊敬を取り戻した。
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中国伝統の清明節は周代のころに始まり、すでに2,500年の歴史を有している。清明は最も初期のころは重要な節気(季節の区切り。24節気などと言う。;訳者註)であった。清明になると気温が上がり、ちょうど春の耕作に最適の時期となる。ゆえに「清明のころは、瓜や豆を植える」、「植樹造林は、清明を過ぎるなかれ」という農業のことわざがあるのだ。のちに、清明と寒食の両日は接近していて、寒食の日(寒食節は清明節の前日とされる;訳者註)には民間では火を使わず墓参りを日となっていたのだが、徐々に寒食と清明は一体化し、寒食は清明の別称となり、清明の風習として変化していき、清明の日に火を使わずに、冷たいものだけを食べるようになった。
寒食については、以下のような言い伝えがある。
伝えるところによると、春秋戦国時代のこと、晋献公の妃驪姫(れいき)は自分の息子奚斉(けいせい)に王位を継がせようと、毒を盛り太子申生(しんせい)を殺そうとたくらんで、申生は無理やり自殺させられてしまった。申生の弟重耳(ちょうじ)は災難を免れるため逃亡した。逃亡中、重耳はありとあらゆる屈辱を受けた。初めは彼といっしょに逃亡した家臣たちだったが、そのほとんどは次から次へと逃げ出してしまった。そうして、忠誠心の固い数人だけが、ずっと彼に付き従うことになった。その中のひとりに介子推(かいしすい)という名の者がいた。あるとき、重耳は飢えのために気絶してしまった。介子推は重耳を救うために自らの脚の肉を切り取り火であぶって重耳に食べさせた。19年ののち、重耳は帰国して君主となり、有名な春秋の五覇のひとり晋文公となった。
http://www.china.org.cn/ch-jieri/qingming/2.htm
寒食については、以下のような言い伝えがある。
伝えるところによると、春秋戦国時代のこと、晋献公の妃驪姫(れいき)は自分の息子奚斉(けいせい)に王位を継がせようと、毒を盛り太子申生(しんせい)を殺そうとたくらんで、申生は無理やり自殺させられてしまった。申生の弟重耳(ちょうじ)は災難を免れるため逃亡した。逃亡中、重耳はありとあらゆる屈辱を受けた。初めは彼といっしょに逃亡した家臣たちだったが、そのほとんどは次から次へと逃げ出してしまった。そうして、忠誠心の固い数人だけが、ずっと彼に付き従うことになった。その中のひとりに介子推(かいしすい)という名の者がいた。あるとき、重耳は飢えのために気絶してしまった。介子推は重耳を救うために自らの脚の肉を切り取り火であぶって重耳に食べさせた。19年ののち、重耳は帰国して君主となり、有名な春秋の五覇のひとり晋文公となった。
http://www.china.org.cn/ch-jieri/qingming/2.htm
日暮途窮(日暮れて道きわまる)
2005年1月30日 連載 戦国時代、楚平王の太子建にはふたりの先生がいた。ひとりは伍奢、もうひとりは費無忌である。費無忌は楚王に代わって秦国の女性を受け入れ妃としてた。このため費無忌は楚平王の目をかけてもらっていたのにもかかわらず、太子が即位してからは彼に不利な状況となり、彼は太子にありもしない罪を着せようとした。楚平王は意外にもそれを信じ、太子を辺境の地へと追いやった。しかし費無忌はそれでも安心できず、太子が報復のチャンスをうかがっているのではないかと心配し、伍奢を拘禁した上、人を遣わして太子を殺害した。
残忍な費無忌はそれでも落ち着くことはなかった。彼は伍奢にふたりの息子がいたのを思い出すと、また人を遣わして、伍奢と長男を殺害した。伍奢の次男伍員だけが生き延び逃げ出した。平王は費無忌のウソのため、伍員は反逆者だと信じ、伍員を捕らえるように命令を下した。伍員は一夜の間逃走いただけで髪もひげも真っ白になってしまった。その後、彼は呉国に逃げ延び、呉王を助け、兵を派遣して楚国を討つように提案した。5度の戦争の結果、とうとう楚国の都を陥落させた。このとき平王はすでに命を落としていた。伍員は父と兄の仇を討つため平王の死体を掘り返し、自ら屍に鞭打った。伍員の親友はこれを知り伍員をとがめたが、傷心の伍員は彼にこう言った。「私は道を行く人のようなものだ。日は暮れたが、まだ道は遠い。だから常識外のこともやるのだ。」と。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=189
残忍な費無忌はそれでも落ち着くことはなかった。彼は伍奢にふたりの息子がいたのを思い出すと、また人を遣わして、伍奢と長男を殺害した。伍奢の次男伍員だけが生き延び逃げ出した。平王は費無忌のウソのため、伍員は反逆者だと信じ、伍員を捕らえるように命令を下した。伍員は一夜の間逃走いただけで髪もひげも真っ白になってしまった。その後、彼は呉国に逃げ延び、呉王を助け、兵を派遣して楚国を討つように提案した。5度の戦争の結果、とうとう楚国の都を陥落させた。このとき平王はすでに命を落としていた。伍員は父と兄の仇を討つため平王の死体を掘り返し、自ら屍に鞭打った。伍員の親友はこれを知り伍員をとがめたが、傷心の伍員は彼にこう言った。「私は道を行く人のようなものだ。日は暮れたが、まだ道は遠い。だから常識外のこともやるのだ。」と。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=189
犬牙交錯(屈折が多くて入り組んでいること)
2005年1月21日 連載 漢高祖劉邦は開国の後、功臣にそれぞれ領地を与え王とした。しかしこれらの王侯は地方に強い権力を持っており、謀反を起そうとする者までいた。そこで漢高祖は一人また一人と彼らを滅ぼしていった。
漢室の基礎を固めるため、漢高祖は同族の者を封じるのにも力を入れた。同姓の諸侯の数が増えたので、漢景帝のころになると、呉王を中心とする七国の乱が勃発した。景帝は周亜夫を遣わしてそれを討たせた。反乱は平定されたが、同姓の諸侯の存在は依然として漢朝の支配を脅かしていた。漢武帝のころになると、中央集権の基礎固めをするため、領地削減の政策が採られた。それは王侯の勢力を弱め、さらに一歩進んだ行動を起そうというものだった。この動きを見て諸侯たちを慌て始め、漢武帝に上申した。「我々は漢王室と血脈が繋がっております。先帝は領地を犬の牙のように入り組んでジグザグに配置されましたが、これによって我々は力を合わせて漢室を守ることができ、武帝様には手加減していただけるようにしたのです。」すると、漢武帝はその後、“推恩令”を発して、諸侯の領地を彼らの子弟に分け与え、実質的に各諸侯の勢力を弱め、中央集権を堅固なものにしたのだった。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=190
漢室の基礎を固めるため、漢高祖は同族の者を封じるのにも力を入れた。同姓の諸侯の数が増えたので、漢景帝のころになると、呉王を中心とする七国の乱が勃発した。景帝は周亜夫を遣わしてそれを討たせた。反乱は平定されたが、同姓の諸侯の存在は依然として漢朝の支配を脅かしていた。漢武帝のころになると、中央集権の基礎固めをするため、領地削減の政策が採られた。それは王侯の勢力を弱め、さらに一歩進んだ行動を起そうというものだった。この動きを見て諸侯たちを慌て始め、漢武帝に上申した。「我々は漢王室と血脈が繋がっております。先帝は領地を犬の牙のように入り組んでジグザグに配置されましたが、これによって我々は力を合わせて漢室を守ることができ、武帝様には手加減していただけるようにしたのです。」すると、漢武帝はその後、“推恩令”を発して、諸侯の領地を彼らの子弟に分け与え、実質的に各諸侯の勢力を弱め、中央集権を堅固なものにしたのだった。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=190
匹夫之勇(血気にはやるだけの向こう見ずな勇気)
2005年1月20日 連載 項羽は敗軍の将ではあるが、司馬遷は彼を称賛して「当時の秦の政治は腐敗し、人々は次々と反乱を起こした。項羽は陳の地からこの地方に軍を率いて反乱を起こし、、、前後たった3年という時間で、秦を滅ぼしてしまった。その後、天下を自らのものにし、各王侯貴族に領地を与え、一地方の覇主として権勢を誇った。その後、ついには覇主の地位を失ったものの、彼ほどの功績偉業を打ち立てた者は近世にいたるまでまだない。」と述べている。
劉邦は皇帝になって以後、洛陽の宮殿での宴会の席で群臣を招いたときにこう言った。「私が成功を収め、順調に天下を取ることができたのは、みなの特長を知ることができ、それをどうやって発揮させるかを心得ていたからだ。」そして、彼は韓信に自分の考え方について問うた。韓信は答えて言った。「大王様はご自分の各方面における才能と長所を把握しておられる。だから実に物分りがよくていらっしゃる。機知や才能の面では項羽には及びませぬが。しかし、私はかつてしばらくの間項羽に部下として仕えたことがございます。彼の性格、行動の仕方、才能についてはとてもよく知っております。項羽は勇猛で戦い上手、一騎当千の力を持ってはおりますが、いかにして人を用いるかを知りません。そのため優秀で傑出した賢臣良将が彼の下におりましても、残念なことに自分の力を発揮することができません。そういうわけで、項羽は勇猛ではあるが、所詮は匹夫の勇、ことをなすにも深謀遠慮がなく、よく考えて行動するということがない。しかるに大王様は賢人勇将を用い、天下を功績のあった将士に分け与え、人々を心から承服させていらっしゃいます。それだからこそ、天下は最後にはあなた様のものになったのでございます。」
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=191
劉邦は皇帝になって以後、洛陽の宮殿での宴会の席で群臣を招いたときにこう言った。「私が成功を収め、順調に天下を取ることができたのは、みなの特長を知ることができ、それをどうやって発揮させるかを心得ていたからだ。」そして、彼は韓信に自分の考え方について問うた。韓信は答えて言った。「大王様はご自分の各方面における才能と長所を把握しておられる。だから実に物分りがよくていらっしゃる。機知や才能の面では項羽には及びませぬが。しかし、私はかつてしばらくの間項羽に部下として仕えたことがございます。彼の性格、行動の仕方、才能についてはとてもよく知っております。項羽は勇猛で戦い上手、一騎当千の力を持ってはおりますが、いかにして人を用いるかを知りません。そのため優秀で傑出した賢臣良将が彼の下におりましても、残念なことに自分の力を発揮することができません。そういうわけで、項羽は勇猛ではあるが、所詮は匹夫の勇、ことをなすにも深謀遠慮がなく、よく考えて行動するということがない。しかるに大王様は賢人勇将を用い、天下を功績のあった将士に分け与え、人々を心から承服させていらっしゃいます。それだからこそ、天下は最後にはあなた様のものになったのでございます。」
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=191
公而忘私(公のために尽くし、私事を顧みない)
2004年12月5日 連載 春秋時代、晋平公は頭がよく能力のある人物を探して南陽県の県令を任せるつもりだった。そのため、彼は大夫の祁黄羊を呼び、ふさわしい人物を推薦させようと思った。しかし、意外にも祁黄羊は因縁があるにもかかわらず自分の敵の解狐を推薦した。
またあるとき、晋平公が軍の統帥の職を勇敢で戦上手な人物に任せようとしていた。彼はそれを知ると、自分の息子の祁午を強く推した。他人が何を言おうと全く気にかけなかった。
相手と自分の関係がよかろうが悪かろうが、適切な人選でありさえすれば、彼は躊躇なく推薦したし、彼が推薦する人物は実際適任だった。それがまた、祁黄羊の人物眼のよさを証明することにもなった。その後孔子はその噂を聞き、祁黄羊がその人の才徳だけを基準に人材を推薦し、相手が自分と敵対し仲が悪い人間であろうが、血のつながった息子であろうがかまわず、まさしく「公のために尽くし、私事を顧みない」という言葉通りだ、と絶賛した。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=192
またあるとき、晋平公が軍の統帥の職を勇敢で戦上手な人物に任せようとしていた。彼はそれを知ると、自分の息子の祁午を強く推した。他人が何を言おうと全く気にかけなかった。
相手と自分の関係がよかろうが悪かろうが、適切な人選でありさえすれば、彼は躊躇なく推薦したし、彼が推薦する人物は実際適任だった。それがまた、祁黄羊の人物眼のよさを証明することにもなった。その後孔子はその噂を聞き、祁黄羊がその人の才徳だけを基準に人材を推薦し、相手が自分と敵対し仲が悪い人間であろうが、血のつながった息子であろうがかまわず、まさしく「公のために尽くし、私事を顧みない」という言葉通りだ、と絶賛した。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=192
年越しの伝説
2004年12月4日 連載 コメント (118) 言い伝えによれば、中国には昔、“年”という怪獣がいたそうだ。頭は長く角は尖り、並外れて強暴だった。“年”は長い間海底深くに住んでいた。毎年大晦日になると岸に上がってきて家畜を丸呑みにし、人を殺すのだった。このため毎年大晦日にはどこの村の人々も年寄りや子供の手を引いて、“年”の被害を避けるために、山の奥深くに逃げ込むのだった。
今年の大晦日、村人たちは山奥へ逃げるためあわただしく荷物をまとめていた。そのころ村の東端からひとりの白髪の老人がやって来て、ある家のおばあさんに言った。「ひと晩私を家に泊めてくれさえすれば、必ず“年”を追い払ってやる。」と。人々はそんな話には耳も貸さなかった。おばあさんは老人に山に登って隠れていた方がよいと勧めたが、老人は村に踏み止まった。人々は彼に逃げるように勧めながら、次々と山奥に逃げて行った。
“年”が去年と同じように村に突入し、残虐の限りを尽くそうとしているとき、突然老人が爆竹を鳴らした。すると“年”は全身身震いをし、それ以上近づいて行こうとしなかった。実は、“年”は赤色と炎と爆音がいちばん嫌いだったのだ。このとき門が開き、庭の中には赤い袍をまとい大声で笑っている老人がいた。“年”はびっくりして真っ青になり、慌てて逃げ出した。
次の日、人々が山奥から村に帰ってみると、村は平穏無事。このときやっと気づいた。白髪の老人はみんなを助けて“年”を追い払ってくれる仙人だったのだ、と。そして人々は白髪の老人が“年”を追い払うのに使った3つの宝物を見つけた。このときから、毎年大晦日には、どの家でも赤い“対聯”を貼り、爆竹を鳴らし、明々と明かりをともし、寝ずに年を越すようになった。この風習は徐々に伝え広まり、中国民間の最大の伝統行事“過年”となった。
http://www.zhshw.com/story/2003-11/2003112491734.htm
今年の大晦日、村人たちは山奥へ逃げるためあわただしく荷物をまとめていた。そのころ村の東端からひとりの白髪の老人がやって来て、ある家のおばあさんに言った。「ひと晩私を家に泊めてくれさえすれば、必ず“年”を追い払ってやる。」と。人々はそんな話には耳も貸さなかった。おばあさんは老人に山に登って隠れていた方がよいと勧めたが、老人は村に踏み止まった。人々は彼に逃げるように勧めながら、次々と山奥に逃げて行った。
“年”が去年と同じように村に突入し、残虐の限りを尽くそうとしているとき、突然老人が爆竹を鳴らした。すると“年”は全身身震いをし、それ以上近づいて行こうとしなかった。実は、“年”は赤色と炎と爆音がいちばん嫌いだったのだ。このとき門が開き、庭の中には赤い袍をまとい大声で笑っている老人がいた。“年”はびっくりして真っ青になり、慌てて逃げ出した。
次の日、人々が山奥から村に帰ってみると、村は平穏無事。このときやっと気づいた。白髪の老人はみんなを助けて“年”を追い払ってくれる仙人だったのだ、と。そして人々は白髪の老人が“年”を追い払うのに使った3つの宝物を見つけた。このときから、毎年大晦日には、どの家でも赤い“対聯”を貼り、爆竹を鳴らし、明々と明かりをともし、寝ずに年を越すようになった。この風習は徐々に伝え広まり、中国民間の最大の伝統行事“過年”となった。
http://www.zhshw.com/story/2003-11/2003112491734.htm
不識時務(客観情勢を知らない、時流に鈍感である)
2004年11月28日 連載 東漢時代献帝のころ、政権は完全に民衆掌握能力を大臣に握られ、漢王室はすでに危機状態にあった。皇帝の子孫として劉備は漢朝の危機を救うチャンスをうかがっていたが、なかなかよい拠点を探せないでいた。
ある日、彼は当時の才学を備えていた隠遁者、司馬徽をはるばる訪れて行った。司馬徽は彼の誠意に動かされて、事情を詳しく聞いた上で劉備に言った。「あなたがチャンスに恵まれないのはあなたを助ける人材がいないからです。」劉備はしばらく考えたがよくわからず、尋ねた。「私を助けてくれる者たちはとても才能がある。糜竺と簡雍のふたりは文官として優れ、張飛と関羽のふたりは武官として優れている。彼らはみな優秀な人材だ。」司馬徽は微笑んで言った。「彼らはたしかに潜在能力はあります。ただ惜しいことに経験不足の若者たちなのです。時事に疎く、どのように時代の潮流に乗っていけばよいかを知らないのです。だから、あなたは人の心、物事の道理をよく理解し臨機応変の知恵を持つ人物を探さなければなりません。その人物に助けてもらってこそ、天下統一という大事業を成し遂げることができるのです。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=193
ある日、彼は当時の才学を備えていた隠遁者、司馬徽をはるばる訪れて行った。司馬徽は彼の誠意に動かされて、事情を詳しく聞いた上で劉備に言った。「あなたがチャンスに恵まれないのはあなたを助ける人材がいないからです。」劉備はしばらく考えたがよくわからず、尋ねた。「私を助けてくれる者たちはとても才能がある。糜竺と簡雍のふたりは文官として優れ、張飛と関羽のふたりは武官として優れている。彼らはみな優秀な人材だ。」司馬徽は微笑んで言った。「彼らはたしかに潜在能力はあります。ただ惜しいことに経験不足の若者たちなのです。時事に疎く、どのように時代の潮流に乗っていけばよいかを知らないのです。だから、あなたは人の心、物事の道理をよく理解し臨機応変の知恵を持つ人物を探さなければなりません。その人物に助けてもらってこそ、天下統一という大事業を成し遂げることができるのです。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=193
不耻下問(目下の者や未熟な者に教えを請うのを恥としない)
2004年11月26日 連載 衛国の大夫孔圉は頭がよく勉強好きだった。さらに彼の偉いところは、とても謙虚な人間だったことだ。孔圉の死後、衛国の君主は後世の人が彼の好学精神を学び発揚するように、特別に彼に“文公”の称号を授けた。それで、後世の人は彼を“孔文子”の尊称で呼ぶようになった。
孔子の弟子の子貢も衛国の人だった。しかし、彼は孔圉はそのような高い評価にふさわしくないと考えていた。あるとき、彼は孔子に尋ねた。「孔圉の学問と才能はすぐれているとは言え、彼より傑出した人は多くいます。どうして孔圉は“文公”の称号を賜ったのでしょうか?」孔子はそれを聞くと微笑みながら答えた。「孔圉はとても勤勉だった。頭がよくて回転が速いだけでなく、何かわからないことがあれば、相手の地位や学問が自分より下であっても、おおらかに気にもかけず、謙虚に教えを請うた。そんなことでは全く恥ずかしいとも思わなかったというところが、彼の偉いところだ。そのために彼は“文公”の称号を賜ったのだ。決してふさわしくないことなどはない。」孔子のこの説明を聞いて、子貢もついには納得したのであった。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=194
孔子の弟子の子貢も衛国の人だった。しかし、彼は孔圉はそのような高い評価にふさわしくないと考えていた。あるとき、彼は孔子に尋ねた。「孔圉の学問と才能はすぐれているとは言え、彼より傑出した人は多くいます。どうして孔圉は“文公”の称号を賜ったのでしょうか?」孔子はそれを聞くと微笑みながら答えた。「孔圉はとても勤勉だった。頭がよくて回転が速いだけでなく、何かわからないことがあれば、相手の地位や学問が自分より下であっても、おおらかに気にもかけず、謙虚に教えを請うた。そんなことでは全く恥ずかしいとも思わなかったというところが、彼の偉いところだ。そのために彼は“文公”の称号を賜ったのだ。決してふさわしくないことなどはない。」孔子のこの説明を聞いて、子貢もついには納得したのであった。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=194
商朝末期、紂王は酒色におぼれ、残虐極まり、人民はとても苦しんでいた。大臣姜子牙は紂王の乱行悪事に我慢がならず、渭水のほとりに身を潜め隠居生活を送ることにした。
渭水一帯は諸侯姫昌の管轄範囲だった。姫昌は胸に大志を抱き、人材を重んじた。姫昌の気を引くため、姜子牙は毎日毎日川辺に座って釣りをしていた。彼の釣り針はまっすぐで、エサもついておらず、水面から3尺離れていたのだった。彼は釣りをしながら言った。「魚よ、早く針にかかってくれ!」親切な人が彼に、こんな釣り方じゃ釣れないと教えてやると、姜子牙はただ笑ってこう言うだけだった。「魚が自分で針にかかってくるはずなのじゃ。」人々は彼を嘲笑ったが、彼は気にも留めなかった。そしてこのことが姫昌の耳に達すると、姫昌は彼が才能のある奇人ではないかと思い、彼を呼び寄せるために兵士を遣わした。姜子牙はこの兵士を見ても、構いもせずに釣りを続けた。口の中では「釣、釣、釣、魚がかからんなぁ。小エビが邪魔をしやがる!」兵士はこのことを帰って報告するしかなかった。そこで姫昌は今度は大臣を遣わした。姜子牙は大臣が来たのを目にしたが、依然相手もせず、「釣、釣、釣、大物がかからんなぁ。雑魚ばっかりじゃ!」とつぶやいていた。大臣もこれでは帰って報告するしかなかった。ついに、姫昌はたくさんの手土産を用意して、自ら姜子牙を訪問することにした。姜子牙は彼が間違いなく誠心誠意、心から有能な人材を求めているのだということを見て取り、彼を補佐することを約束した。姫昌は尊敬の念を示すために、彼を太公に封じた。その後、姜子牙は文王、武王の補佐を続け、商朝の支配を覆し、中国史上最も長い周朝を打ち立てた。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=195
渭水一帯は諸侯姫昌の管轄範囲だった。姫昌は胸に大志を抱き、人材を重んじた。姫昌の気を引くため、姜子牙は毎日毎日川辺に座って釣りをしていた。彼の釣り針はまっすぐで、エサもついておらず、水面から3尺離れていたのだった。彼は釣りをしながら言った。「魚よ、早く針にかかってくれ!」親切な人が彼に、こんな釣り方じゃ釣れないと教えてやると、姜子牙はただ笑ってこう言うだけだった。「魚が自分で針にかかってくるはずなのじゃ。」人々は彼を嘲笑ったが、彼は気にも留めなかった。そしてこのことが姫昌の耳に達すると、姫昌は彼が才能のある奇人ではないかと思い、彼を呼び寄せるために兵士を遣わした。姜子牙はこの兵士を見ても、構いもせずに釣りを続けた。口の中では「釣、釣、釣、魚がかからんなぁ。小エビが邪魔をしやがる!」兵士はこのことを帰って報告するしかなかった。そこで姫昌は今度は大臣を遣わした。姜子牙は大臣が来たのを目にしたが、依然相手もせず、「釣、釣、釣、大物がかからんなぁ。雑魚ばっかりじゃ!」とつぶやいていた。大臣もこれでは帰って報告するしかなかった。ついに、姫昌はたくさんの手土産を用意して、自ら姜子牙を訪問することにした。姜子牙は彼が間違いなく誠心誠意、心から有能な人材を求めているのだということを見て取り、彼を補佐することを約束した。姫昌は尊敬の念を示すために、彼を太公に封じた。その後、姜子牙は文王、武王の補佐を続け、商朝の支配を覆し、中国史上最も長い周朝を打ち立てた。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=195
小巫遇見大巫(小物が大物の前に出るといよいよ小さく見えること)
2004年11月21日 連載 三国時代、東呉の孫権の身辺には名将張フツ(糸へんに祓のつくりを書く)がいた。彼はとても才能のある人物で、詩を書くのが上手なだけでなく、賦(韻文と散文を総合したスタイルの文)を作るのにも優れていて、当時の有名な文学者陳琳と同郷であった。陳琳の著書に≪武庫賦≫があったが、張フツがそれを読み終わり、とてもすばらしいと思い、陳琳の文才を称賛する手紙を書いた。陳琳は返信でこう書いた。「私は河北に住んでおり、ほとんど天下とは隔絶された状態です。ここには文章を書く人も少なく、すぐに注目を浴びます。そういうわけなので、私の文筆がいいとかではなく、あなたの褒め過ぎなのです。私などあなたや張昭様のお2人と比べれば、ほんとうにひどく見劣りがします。まるで小物の祈祷師が大物の祈祷師に会って、法術を使うのも恥ずかしい、といったようなことなのでございます。」
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=196
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=196
口若懸河(弁舌がよどみない形容。立て板に水)
2004年11月19日 連載 晋の時代、とても学問のある学者がいた。その名は郭象と言った。彼はまだ幼いころから頭角を現し、10代で≪老子≫、≪荘子≫などの古書を読み終わっただけでなく、一息で暗誦までできた。
郭象の噂は次第に広まり、朝廷から使いが来て彼は官職に請われた。断ることもできず承諾すると、黄門侍郎という地位を得た。彼は平素からたくさんの本を読んでいたので、知識がとても豊富で、日常生活の細部にまでそれを応用するのが好きだった。そのため、彼の意見は他の人のものより本質を突いていて、さまざまな理論もわかりやすく説明できた。それで彼はたくさんの人から尊敬されていた。郭象は弁舌の才能もあり、話し方はよどみなく、活き活きとして、みな熱心にその話を聞いた。その中に王衍という太尉がいた。彼は郭象の話を聞き終わった後、しみじみとこう言った。「郭象の話を聞くのは、滝の水が流れ落ちるのを見ているかのようだ。滔々として絶えず、永遠に止まることを知らない。」
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=197
郭象の噂は次第に広まり、朝廷から使いが来て彼は官職に請われた。断ることもできず承諾すると、黄門侍郎という地位を得た。彼は平素からたくさんの本を読んでいたので、知識がとても豊富で、日常生活の細部にまでそれを応用するのが好きだった。そのため、彼の意見は他の人のものより本質を突いていて、さまざまな理論もわかりやすく説明できた。それで彼はたくさんの人から尊敬されていた。郭象は弁舌の才能もあり、話し方はよどみなく、活き活きとして、みな熱心にその話を聞いた。その中に王衍という太尉がいた。彼は郭象の話を聞き終わった後、しみじみとこう言った。「郭象の話を聞くのは、滝の水が流れ落ちるのを見ているかのようだ。滔々として絶えず、永遠に止まることを知らない。」
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=197
大義滅親(正義のためには親兄弟の情けも顧みないこと)
2004年11月18日 連載 衛庄公の妾に州吁という名の息子がいた。小さいころから寵愛を受けていたが、正業にも就かず、1日中ただ剣や槍を持って踊り遊んでいた。そのころ、大夫石[石昔]にも石厚という息子がいた。州吁とは意気投合して悪さをしでかし、とても仲がよかった。その後、衛庄公が亡くなり、公子完が位を継いで衛恒公となった。このとき、石[石昔]は年もとり、州吁の行いに不満も感じていたので、隠居を願い出て故郷に帰った。
ある日、衛恒公は、周王に見るため洛邑に赴いた。州吁と石厚は見送りを装って衛恒公を殺し、王位を奪った。しかし彼らは人心を掌握できなかったので、石[石昔]に人心を落ち着かせてくれるよう援助を願い出た。石[石昔]は助けを求めてきた息子に対して言った。「お前たちは陳恒公の援助をもらって、周王の目の前で説明をし、周王の賛同を得るのじゃ。」石厚と州吁は貢物を持って陳国に赴いた。そこでは石[石昔]が裏から陳恒公に手を回し、君王殺しの犯人を捕らるように密告していたのだった。石厚と州吁は陳国に到着するなりすぐに捕まってしまった。そして、陳王は人を遣わして、この犯人2人をどうしたらよいか尋ねさせた。石[石昔]は「この坊主どもは不忠不孝の輩。生かしておいて何の役に立ちましょうか?」と答え、2人を殺させた。石[石昔]はこのようにして後代の人々の称賛を得た。後に人々はこのような行為を「大義滅親」と呼ぶようになった。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=198
ある日、衛恒公は、周王に見るため洛邑に赴いた。州吁と石厚は見送りを装って衛恒公を殺し、王位を奪った。しかし彼らは人心を掌握できなかったので、石[石昔]に人心を落ち着かせてくれるよう援助を願い出た。石[石昔]は助けを求めてきた息子に対して言った。「お前たちは陳恒公の援助をもらって、周王の目の前で説明をし、周王の賛同を得るのじゃ。」石厚と州吁は貢物を持って陳国に赴いた。そこでは石[石昔]が裏から陳恒公に手を回し、君王殺しの犯人を捕らるように密告していたのだった。石厚と州吁は陳国に到着するなりすぐに捕まってしまった。そして、陳王は人を遣わして、この犯人2人をどうしたらよいか尋ねさせた。石[石昔]は「この坊主どもは不忠不孝の輩。生かしておいて何の役に立ちましょうか?」と答え、2人を殺させた。石[石昔]はこのようにして後代の人々の称賛を得た。後に人々はこのような行為を「大義滅親」と呼ぶようになった。
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力不從心(やりたいけれども実力が伴わない。意余って力足らず)
2004年11月17日 連載 東漢のころ、班超は明帝の派遣によって数十人のお伴を連れて西域に使節として出かけ、たくさんの功績を打ち立てた。しかし、西域に27年も住んでいた班超は、年もとり、からだも壊し、故郷に帰りたいと思うようになった。そこで手紙を書いて、息子に持たせ漢朝に届けた。そこには彼を戻してくれるように、という皇帝への願いが託されていたのだが、班超はずっと返事をもらうこともなかった。そこで、今度は妹が書面を奉り、皇帝に兄の気持ちを伝えた。
手紙の中にはこう書いてあった。「班超は彼といっしょに西域に行った人間の中ではいちばんの高齢です。現在すでに還暦を越えております。からだも衰え病気がち、頭は白髪まじり、両手は思うような動きができず、耳も遠くなり、目も以前ほど見えなくなって、歩くのにも杖が必要な始末。もし突然反乱が起こったりすれば、国家のために力を尽くしたいという班超の気持ちとは裏腹の結果になるかもしれません。こんなことをしていると、上は国が新疆を治めていた成果に傷をつけるかも知れず、下は忠臣としてやっと打ち立てた功績を台無しにするかもしれません。なんとやるせないことでしょう。」手紙を読んで感じ入った漢和帝は、すぐに班超を漢朝へ呼び戻す命令を出した。班超が洛陽に戻ると、1ヶ月もしないうちに、胸の病が重くなりこの世を去った。享年71歳であった。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=199
手紙の中にはこう書いてあった。「班超は彼といっしょに西域に行った人間の中ではいちばんの高齢です。現在すでに還暦を越えております。からだも衰え病気がち、頭は白髪まじり、両手は思うような動きができず、耳も遠くなり、目も以前ほど見えなくなって、歩くのにも杖が必要な始末。もし突然反乱が起こったりすれば、国家のために力を尽くしたいという班超の気持ちとは裏腹の結果になるかもしれません。こんなことをしていると、上は国が新疆を治めていた成果に傷をつけるかも知れず、下は忠臣としてやっと打ち立てた功績を台無しにするかもしれません。なんとやるせないことでしょう。」手紙を読んで感じ入った漢和帝は、すぐに班超を漢朝へ呼び戻す命令を出した。班超が洛陽に戻ると、1ヶ月もしないうちに、胸の病が重くなりこの世を去った。享年71歳であった。
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十面埋伏(十面埋伏の計)
2004年11月16日 連載 秦代末期、韓信は楚軍の隊列の属し、幾多の戦争に参戦していたが、とうとう重用されることはなかった。その後、楚軍は項羽の指揮するところとなったが、項羽もなかなか韓信を重用しようとはしなかった。このため彼は劉邦の率いる漢軍に身を投じ活路を見出す決意をした。韓信はもともと有名な人物ではなかったので、漢軍の中に入った後もチャンスに恵まれなかった。長い間待ったがやはり音沙汰もなく、とうとうしかたなく怒りの気持ちを抱きながら、何も言わずに去って行った。漢軍の大将蕭何は韓信が得がたい人材であることを見抜いていたので、すぐに早馬に鞭をあて韓信を追いかけて連れ戻した。そして漢王に韓信を大将に抜擢するよう上申した。
韓信は大将になった後、関中の三秦の地を手に入れた。韓信が斉国を打ち破ったころ、漢王はちょうど項羽を窮地に追い込んでいた。このとき韓信は自分を斉王にするように要求した。漢王は承諾せざるを得なかった。韓信は30万の軍を率いて蘇北を攻め落とし、項羽の楚軍を垓下において包囲した。勇敢な項羽に対してはもっぱら一歩一歩慎重な戦術を用い、ついには項羽の楚軍を打ち破った。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=200
韓信は大将になった後、関中の三秦の地を手に入れた。韓信が斉国を打ち破ったころ、漢王はちょうど項羽を窮地に追い込んでいた。このとき韓信は自分を斉王にするように要求した。漢王は承諾せざるを得なかった。韓信は30万の軍を率いて蘇北を攻め落とし、項羽の楚軍を垓下において包囲した。勇敢な項羽に対してはもっぱら一歩一歩慎重な戦術を用い、ついには項羽の楚軍を打ち破った。
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人死留名(人は死して名を残す)
2004年11月12日 連載 王彦章は五代の人だった。彼は若いころ梁太祖に随行して戦い、少なからぬ戦功を立てた。太祖の死後は末帝のために梁朝の国家基盤をゆるぎないものにし、その功績はかなりのものだった。しかし、王彦章が2度続けて後唐攻略に失敗したのを機会に、日頃から彼に反感を抱いていた者たちは、末帝に王彦章の悪口を言った。ついには王彦章は軍の指揮権を取り上げられた。半年もたたないうちに、後梁は国家の危機に瀕することになり、再度王彦章の出馬を請うことになった。
あるとき、王彦章は唐兵に生け捕りにされた。後唐庄宗は彼の才能を買って、将校になってくれと頼んだ。王彦章は言った。「将校になるような人間なら、朝にこちらの国で力を尽くし、夜にはもう一方の国で仕事をする、といったようなことはしないでしょう。どうか王様、私に一太刀下してください。恨み言は申しません。ただ光栄に思うだけでございます。」とうとう彼は死ぬことになってしまったが、死んだ後にはすばらしい名声を残すことになった。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=202
あるとき、王彦章は唐兵に生け捕りにされた。後唐庄宗は彼の才能を買って、将校になってくれと頼んだ。王彦章は言った。「将校になるような人間なら、朝にこちらの国で力を尽くし、夜にはもう一方の国で仕事をする、といったようなことはしないでしょう。どうか王様、私に一太刀下してください。恨み言は申しません。ただ光栄に思うだけでございます。」とうとう彼は死ぬことになってしまったが、死んだ後にはすばらしい名声を残すことになった。
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人心如面(人の心は顔の如し)
2004年11月11日 連載 春秋時代、鄭国の執政者子皮は尹何を大夫に任用しようと思っていた。そのとき、多くの人は尹何は若すぎる上に官職にも就いたことがないので、能力不足だろうと考えていた。しかし子皮はそうは考えなかった。「彼の誠実さは称賛に値する。彼は必ず私の期待に応えてくれると信じているし、今が彼にとってちょうどよい勉強の機会だと思う。」と彼は言った。子皮のもうひとりの大臣の子産は落ち着いてこう答えた。「王様がお考えのように、若い者を育てることはよいことです。しかし、かえって彼自身のためにならないこともあるのです。ちょうど包丁の使い方を知らない者に、肉を切らせると自分の指を切ってしまうように。国を治めるということも同じなのです。もし尹何が正式に大夫に就任する前にもう少し勉強する機会を与えれば、彼が仕事に就いたときには、きっと秩序だった仕事ができるようになっているでしょう。もしそうしなければ、国に思わぬ損害を与えてしまいます。」子皮は子産の話を聞き、はっとして言った。「そなたの話はとても道理にかなっておる。これからはことあるごとにそなたの意見を聞くことにしよう。そうすれば大きな間違いはなかろうからな。」意外なことに謙虚な子産は首を振りながらこう言った。「人の考え方は外見と同じく人それぞれ異なります。私の意見はご参考までに!」
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=203
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入室操戈(その人の言葉でその人に反論する)
2004年11月11日 連載 後漢時代、有名な文学者で教育家でもある鄭玄という人がいた。彼は小さいころから勤勉で勉強好きだった。太守杜密は彼が見込みのある人材だと思って、彼を太学に入れて勉強できるように推薦した。その後鄭玄は大文学者の馬融を師と仰ぎ、彼の門下で学んだ。鄭玄が学成りそこを出て行くとき、馬融は感慨にふけりながら言った。「鄭玄が出て行く、私の知識をすべて持ち去って行く。」と。
鄭玄は家で学問研究に励んでいた。彼と経学を研究していた何休は親友だった。何休は≪公羊墨守≫、≪左氏膏盲≫、≪谷梁廃疾≫という3篇の文章を書いた。鄭玄はそれを読み終わると、彼の意見に反対し、≪発墨守≫、≪針膏盲≫、≪起癈疾≫という文章を書いて、何休に反論した。何休は読み終わると、鄭玄が自分の文章中の観点を利用して自分の意見に反論していることを知った。その上、筋道が通っており、残念ながらこう言わざるをえなかった。「あなたは私の部屋に入ってきて、私の武器を使って、私を攻めているんじゃないのですか?」と。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=204
鄭玄は家で学問研究に励んでいた。彼と経学を研究していた何休は親友だった。何休は≪公羊墨守≫、≪左氏膏盲≫、≪谷梁廃疾≫という3篇の文章を書いた。鄭玄はそれを読み終わると、彼の意見に反対し、≪発墨守≫、≪針膏盲≫、≪起癈疾≫という文章を書いて、何休に反論した。何休は読み終わると、鄭玄が自分の文章中の観点を利用して自分の意見に反論していることを知った。その上、筋道が通っており、残念ながらこう言わざるをえなかった。「あなたは私の部屋に入ってきて、私の武器を使って、私を攻めているんじゃないのですか?」と。
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九牛一毛(大多数の中のごく少数)
2004年11月8日 連載 西漢時代、李陵という有名な将軍がいた。彼は漢武帝の命を受け、軍を率いて匈奴を攻めた。しかし、兵力が不足していたため戦に負けて投降した。武帝はこのことを聞いてとても怒った。李陵が功を立てることができなかったばかりでなく、簡単に敵に降参してしまったのだと思ったのだ。他の大臣たちも口々に李陵の不忠をなじった。ただ太史令司馬遷だけは李陵の肩を持った。彼は李陵のために遠慮せずに言った。「李陵将軍は孤軍奮闘し、出兵し敵を討つときにはいつも、よい成績を収められた。しかるに今回は、李広利(正面主力部隊の将軍)の協力を得られなかった。500名の歩兵は8万の匈奴軍に取り囲まれながらも、死をも恐れずに立ち向かった。その上十数日続いた戦において、敵兵1万を殺傷したのだ。軍の食料と馬草が尽きて偽装投降せざるを得なかったのだ。このような戦績はなかなか打ち立てられるものではない。李陵殿はほんとうにすばらしい将軍だ。少なくとも彼の功績を以ってすれば、彼の罪は帳消しにしてもよいようなものだ。」
漢武帝は司馬遷が李陵のために弁解しただけでなく、武帝の親族の李広利のことまで悪く言ったのを聞きつけ、烈火の如く怒り、即刻牢に放り込み、すぐに司馬遷に対し、その当時最も残酷で最も恥辱的な宮刑を科す判決を下した。司馬遷はこのようなひどい目に遭い、屈辱を受けて、何度も自殺を試みた。しかし自分がこんな状態になって、たとえ死んだところで、他の者の目には“九牛の一毛”にしか映らないだろう。それだけでなく誰からも同情さえされず、あざ笑われるのがおちだ、と思った。そこで、彼は腹を決め、勇気を持って生き抜くことにした。そして最後には≪史記≫数千年の間史学史上に名を残すような著作を完成したのだった。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=205
漢武帝は司馬遷が李陵のために弁解しただけでなく、武帝の親族の李広利のことまで悪く言ったのを聞きつけ、烈火の如く怒り、即刻牢に放り込み、すぐに司馬遷に対し、その当時最も残酷で最も恥辱的な宮刑を科す判決を下した。司馬遷はこのようなひどい目に遭い、屈辱を受けて、何度も自殺を試みた。しかし自分がこんな状態になって、たとえ死んだところで、他の者の目には“九牛の一毛”にしか映らないだろう。それだけでなく誰からも同情さえされず、あざ笑われるのがおちだ、と思った。そこで、彼は腹を決め、勇気を持って生き抜くことにした。そして最後には≪史記≫数千年の間史学史上に名を残すような著作を完成したのだった。
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一諾千金(約束は必ず守る、一度引き受けた以上必ずやり遂げる)
2004年11月7日 連載 秦代末期、楚国に季布という人がいた。彼は性格がまっすぐで、信用をとても重んじた。彼は引き受けたことは必ずやり遂げるよう努力した。このため多くの人から称賛を受け、みな彼を尊敬していた。
彼は以前、項羽の軍で将校を務めていて、兵を率いて何度も劉邦を打ち破っていた。そのため、劉邦が漢朝をうち建て、皇帝になったとき、季布を捕らえるよう命令を出し、「季布を捕らえた者には黄金千両を与える。季布をかくまった者は三族断絶の罰を課す。」と宣言した。しかし、季布は人柄は正直で、いつも義侠を果たしていたので、みな彼をかばおうとした。最初、季布は親友の家に隠れていたが、しばらくすると、彼を捕らえよ、という噂がだんだんと伝わってきたので、親友は彼の頭を剃り、奴隷の格好をさせ、数十人の召使いの少年といっしょに魯国の朱家に売りに出し、そこで働かせた。
朱家の主人は季布の人柄に惚れ込んで、わざわざ洛陽まで出かけて行って、劉邦の親友の汝陰侯滕公に劉邦へのとりなしを願い出て、季布の指名手配を解除してもらえるように頼んだ。その後、劉邦は申し出の通りに季布を赦免した上、更に彼に官職を与えた。季布と同郷の曹邱生という人がいた。彼は平素から権勢を備えた友人と行き来するのが好きだった。そこで、人に頼んで季布へ紹介状を書いてもらい、季布との交友を願い出た。しかし、季布はひと目見るなり彼に反感を抱き、まったく曹邱生の相手をしようとしなかった。しかし、彼は季布のいやな顔を見て見ぬ振りをして、何事もなかったように続けた。「あなたもご存知の通り、私たちはともに楚国の人間だ。人は『季布の承諾を得るのは、黄金百両を手に入れるより難しい』と言っている。これは私が行く先々で宣伝して回ったためだ。それなのに、あなたはどうして私に会うことを拒絶し続けるのですか。」季布は曹邱生の話を聞いて、とても喜び、すぐに態度を変えて彼を上客としてもてなした。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=206
彼は以前、項羽の軍で将校を務めていて、兵を率いて何度も劉邦を打ち破っていた。そのため、劉邦が漢朝をうち建て、皇帝になったとき、季布を捕らえるよう命令を出し、「季布を捕らえた者には黄金千両を与える。季布をかくまった者は三族断絶の罰を課す。」と宣言した。しかし、季布は人柄は正直で、いつも義侠を果たしていたので、みな彼をかばおうとした。最初、季布は親友の家に隠れていたが、しばらくすると、彼を捕らえよ、という噂がだんだんと伝わってきたので、親友は彼の頭を剃り、奴隷の格好をさせ、数十人の召使いの少年といっしょに魯国の朱家に売りに出し、そこで働かせた。
朱家の主人は季布の人柄に惚れ込んで、わざわざ洛陽まで出かけて行って、劉邦の親友の汝陰侯滕公に劉邦へのとりなしを願い出て、季布の指名手配を解除してもらえるように頼んだ。その後、劉邦は申し出の通りに季布を赦免した上、更に彼に官職を与えた。季布と同郷の曹邱生という人がいた。彼は平素から権勢を備えた友人と行き来するのが好きだった。そこで、人に頼んで季布へ紹介状を書いてもらい、季布との交友を願い出た。しかし、季布はひと目見るなり彼に反感を抱き、まったく曹邱生の相手をしようとしなかった。しかし、彼は季布のいやな顔を見て見ぬ振りをして、何事もなかったように続けた。「あなたもご存知の通り、私たちはともに楚国の人間だ。人は『季布の承諾を得るのは、黄金百両を手に入れるより難しい』と言っている。これは私が行く先々で宣伝して回ったためだ。それなのに、あなたはどうして私に会うことを拒絶し続けるのですか。」季布は曹邱生の話を聞いて、とても喜び、すぐに態度を変えて彼を上客としてもてなした。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=206