漢高祖劉邦は江西の人だった。秦代の末ごろ、泗水亭亭長(秦代の制度。10里に1亭、10亭に1郷を設ける。亭長とは後の時代の“保甲(=隣組制度)”長や村長のようなもの)に任命された。

あるとき、彼は命を受け民工の一団を連れて秦始皇帝の陵墓を建造しに行った。途中、毎日たくさんの民工が逃亡した。劉邦は知恵のある人だったので、民工が全員逃げ出してしまったら自分が罪をかぶせられるだろうと考えた。そこで、彼は皆に「お前たちは驪山へ行ってつらい仕事をするのだ。たとえ疲労から死んでしまうことがなかったとしても、いつになったら故郷に帰れるかわからない。さあ、お前たち、自分たちで活路を開け!」と言った。

当時の秦2世皇帝は残虐だった。陳勝が反乱軍が陳県を攻め落とし、そこの県令は陳勝を頼って手下になろうと考えたが、指導者にもなりたかった。そこで彼の部下は彼に劉邦の味方につくように進言し、彼はそれに従った。劉邦が城外に到着したとき、彼は気が変わり城門を閉鎖するよう命令し、2人の部下を殺してしまった。劉邦はこれを知って手紙をしたため城内に弓矢とともに射込んだ。そして城内の民衆を動員して県令を殺してしまった。その後人々は彼を県長に推挙した。劉邦はみなの手助けによって、その後まもなく沛県で正式に武装蜂起した。

http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=208

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