晋文公は血書を袖の中にしまった。その後介子推と母親をそれぞれその焼け焦げた柳の大木の下に葬った。介子推を記念するため、晋文公は綿山を“介山”という名前に改める命令を出した。山の上には祠(ほこら)が建てられ、山に火を放った火を“寒食節”と定め、全国に、毎年その日には火を使うことを控え、冷たいものだけを食べるようにとの触れを出した。

帰り際、彼は1本の焼け焦げた柳の木を切り、宮中で一足の木靴を作った。毎日それを見ては「悲しいかな、足下」と嘆息した。「足下」とは昔の人が使った呼称で、位の下の者が目上の人に対して、あるいは同輩どうし尊敬の念をこめて呼ぶときに使う。この呼び方はこのことが起源になっているという。

次の年、晋文公は群臣を引き連れ、白い服を着て徒歩で山に登り弔いをし、哀悼の意を表した。墓のところまで来ると、あの古い柳の木が息を吹き返し、たくさんの緑色の枝を伸ばして風に揺らめいていた。晋文公は生き返った柳の木を眺めて、介子推に会えたような気がした。彼は鄭重に近づいて行き、そっと枝を1本手折り、輪を作って頭に載せた。墓参りの後、晋文公は生き返った柳を“清明柳”と名づけ、その日を清明節と定めた。

その後、晋文公はいつも血書の袖を肌身離さず、自己を鞭打つために執政のときの座右の銘とした。彼は明るい政治にいそしみ、懸命に政治に意を注ぎ、よく国家を治めた。

そうして、晋国の民衆は安心して暮らせるようになり、功があっても驕らず、富貴を求めなかった介子推を思い慕った。毎年彼が亡くなった日になると、火を用いることをやめ記念とした。また、小麦粉とナツメのこしあんを混ぜてツバメの形を作り、柳の串で刺して門に挟み、介子推の霊を呼んだ。これを“之推燕”(介子推はまたの名を“介之推”ともいう)と呼ぶ。この後、寒食、清明は全国民衆の盛大な節句となった。毎年寒食になると、人々は食事を作る火を起さず、冷たい食べ物だけを食べた。北方では、あらかじめ作っておいた棗餅、麦もちなどしか食べない。南方では,多くは青団やもち米砂糖レンコンを食べる。清明節ではいつも、人々は柳の枝を編んで頭に載せたり、家の前や後ろに柳の枝をさして、思慕の念を表す。

http://www.china.org.cn/ch-jieri/qingming/2.htm

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あいうえお
2008年9月8日9:54

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