「楊先生、どこにいらっしゃるんですか?」劉文

20数年前仕事の関係で元鉄道部の永済電気工場の中学の
楊先生と知り合った。

その後、頻繁に職場が変わったため彼女との連絡は途絶えた。
20年後ふたたび先生の住所を知ったとき、
先生はすでに病気で亡くなってしまったとのことだった。
私は子供のように声が出ないほど号泣した。

当時の先生といた風景が、
映画の中の回想シーンのように、
ひとつひとつ目の前によみがえってきた。

1978年、私は軍隊に入隊し中条山のふもと、
黄河の岸辺の山西省永済に、
空軍部隊の地上兵士としてやって来た。

軍は私を子弟小学校の校外指導員として配属した。
音楽を教えていた楊立先生と出会ったのは
その小学校でのことだった。

楊先生は熱心でてきぱきと仕事をこなし、
まじめな人で強く印象に残っている。

あるとき楊先生が私のために用意してくださった
家庭でのもてなしの席上で、
彼女は私の状況を理解した上で、
努力して勉強し、軍学校を受けるよう激励してくださった。

彼女は、部隊は志気と教養のある若者を必要としています。
とおっしゃった。

私の復習のために楊先生はわざわざ高校の教科書と
復習教材を探してくださった。

志有るものは苦を恐れず。
1981年、私は希望通り軍学校に進学した。

楊先生との別れの語らいのとき、
彼女は優しいお母さんが旅立つ子供に
言い含めるように、
たくさんの激励の言葉をいただき、
たくさん注意すべきことを教えていただいた。

学校からはいつも楊先生に手紙を書いて、
私の学習状況を報告していた。

楊先生の手紙を読み、
楊先生が万年筆で書いた美しい字を見ると、
心の中には自信と力がみなぎった。

卒業後、私は飛行学院の航空理論の教員になり、
永済を離れ、楊先生と遠く離れてしまった。

最初の数年間は手紙をやり取りしていたが、
その後だんだんと連絡が途絶えるようになった。

この10年で私は家庭を持ち、子供が生まれ、
仕事でもある程度の成績を収めた。

何度も褒章をいただき、
全軍中で優秀な教師に選ばれたりした。
副教授に昇進し、大校という階級をいただいた。

以前こんな日が来ることを夢見たことがあった。
旧ソ連の有名な映画「田舎の女教師」
の一場面のような日を。

当時の生徒の多くは今では科学者や、
戦闘の英雄、エンジニア、将軍になった。

私たちは楊先生のところに集まり、
先生をびっくりさせて、
私たちのことを誇りに思ってもらおうと思った。

私はとうとう永済にくるチャンスを得た。

しかし、思いもしなかった先生の訃報に触れた。

先生のお墓の周りは果樹で囲まれていた。
桃とスモモ(「教え子」のたとえとしても使う)が
枝にいっぱいだ

私はちょっとほっとした。
こんなにたくさんの
桃李(上記「桃とスモモ=教え子」)が
先生に付き添っていれば、
先生もさびしくはないだろうと。

私は大切な楊先生の墓前で軍隊式の敬礼をした。

これが戦士として、教師として、定員外の生徒として、
先生に対する最高の敬意の表現であった。

≫中国語原文はこちらから

http://yujinxiang.exblog.jp/d2005-09-14

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