年越しの伝説
2004年12月4日 連載 コメント (118) 言い伝えによれば、中国には昔、“年”という怪獣がいたそうだ。頭は長く角は尖り、並外れて強暴だった。“年”は長い間海底深くに住んでいた。毎年大晦日になると岸に上がってきて家畜を丸呑みにし、人を殺すのだった。このため毎年大晦日にはどこの村の人々も年寄りや子供の手を引いて、“年”の被害を避けるために、山の奥深くに逃げ込むのだった。
今年の大晦日、村人たちは山奥へ逃げるためあわただしく荷物をまとめていた。そのころ村の東端からひとりの白髪の老人がやって来て、ある家のおばあさんに言った。「ひと晩私を家に泊めてくれさえすれば、必ず“年”を追い払ってやる。」と。人々はそんな話には耳も貸さなかった。おばあさんは老人に山に登って隠れていた方がよいと勧めたが、老人は村に踏み止まった。人々は彼に逃げるように勧めながら、次々と山奥に逃げて行った。
“年”が去年と同じように村に突入し、残虐の限りを尽くそうとしているとき、突然老人が爆竹を鳴らした。すると“年”は全身身震いをし、それ以上近づいて行こうとしなかった。実は、“年”は赤色と炎と爆音がいちばん嫌いだったのだ。このとき門が開き、庭の中には赤い袍をまとい大声で笑っている老人がいた。“年”はびっくりして真っ青になり、慌てて逃げ出した。
次の日、人々が山奥から村に帰ってみると、村は平穏無事。このときやっと気づいた。白髪の老人はみんなを助けて“年”を追い払ってくれる仙人だったのだ、と。そして人々は白髪の老人が“年”を追い払うのに使った3つの宝物を見つけた。このときから、毎年大晦日には、どの家でも赤い“対聯”を貼り、爆竹を鳴らし、明々と明かりをともし、寝ずに年を越すようになった。この風習は徐々に伝え広まり、中国民間の最大の伝統行事“過年”となった。
http://www.zhshw.com/story/2003-11/2003112491734.htm
今年の大晦日、村人たちは山奥へ逃げるためあわただしく荷物をまとめていた。そのころ村の東端からひとりの白髪の老人がやって来て、ある家のおばあさんに言った。「ひと晩私を家に泊めてくれさえすれば、必ず“年”を追い払ってやる。」と。人々はそんな話には耳も貸さなかった。おばあさんは老人に山に登って隠れていた方がよいと勧めたが、老人は村に踏み止まった。人々は彼に逃げるように勧めながら、次々と山奥に逃げて行った。
“年”が去年と同じように村に突入し、残虐の限りを尽くそうとしているとき、突然老人が爆竹を鳴らした。すると“年”は全身身震いをし、それ以上近づいて行こうとしなかった。実は、“年”は赤色と炎と爆音がいちばん嫌いだったのだ。このとき門が開き、庭の中には赤い袍をまとい大声で笑っている老人がいた。“年”はびっくりして真っ青になり、慌てて逃げ出した。
次の日、人々が山奥から村に帰ってみると、村は平穏無事。このときやっと気づいた。白髪の老人はみんなを助けて“年”を追い払ってくれる仙人だったのだ、と。そして人々は白髪の老人が“年”を追い払うのに使った3つの宝物を見つけた。このときから、毎年大晦日には、どの家でも赤い“対聯”を貼り、爆竹を鳴らし、明々と明かりをともし、寝ずに年を越すようになった。この風習は徐々に伝え広まり、中国民間の最大の伝統行事“過年”となった。
http://www.zhshw.com/story/2003-11/2003112491734.htm
不識時務(客観情勢を知らない、時流に鈍感である)
2004年11月28日 連載 東漢時代献帝のころ、政権は完全に民衆掌握能力を大臣に握られ、漢王室はすでに危機状態にあった。皇帝の子孫として劉備は漢朝の危機を救うチャンスをうかがっていたが、なかなかよい拠点を探せないでいた。
ある日、彼は当時の才学を備えていた隠遁者、司馬徽をはるばる訪れて行った。司馬徽は彼の誠意に動かされて、事情を詳しく聞いた上で劉備に言った。「あなたがチャンスに恵まれないのはあなたを助ける人材がいないからです。」劉備はしばらく考えたがよくわからず、尋ねた。「私を助けてくれる者たちはとても才能がある。糜竺と簡雍のふたりは文官として優れ、張飛と関羽のふたりは武官として優れている。彼らはみな優秀な人材だ。」司馬徽は微笑んで言った。「彼らはたしかに潜在能力はあります。ただ惜しいことに経験不足の若者たちなのです。時事に疎く、どのように時代の潮流に乗っていけばよいかを知らないのです。だから、あなたは人の心、物事の道理をよく理解し臨機応変の知恵を持つ人物を探さなければなりません。その人物に助けてもらってこそ、天下統一という大事業を成し遂げることができるのです。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=193
ある日、彼は当時の才学を備えていた隠遁者、司馬徽をはるばる訪れて行った。司馬徽は彼の誠意に動かされて、事情を詳しく聞いた上で劉備に言った。「あなたがチャンスに恵まれないのはあなたを助ける人材がいないからです。」劉備はしばらく考えたがよくわからず、尋ねた。「私を助けてくれる者たちはとても才能がある。糜竺と簡雍のふたりは文官として優れ、張飛と関羽のふたりは武官として優れている。彼らはみな優秀な人材だ。」司馬徽は微笑んで言った。「彼らはたしかに潜在能力はあります。ただ惜しいことに経験不足の若者たちなのです。時事に疎く、どのように時代の潮流に乗っていけばよいかを知らないのです。だから、あなたは人の心、物事の道理をよく理解し臨機応変の知恵を持つ人物を探さなければなりません。その人物に助けてもらってこそ、天下統一という大事業を成し遂げることができるのです。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=193
不耻下問(目下の者や未熟な者に教えを請うのを恥としない)
2004年11月26日 連載 衛国の大夫孔圉は頭がよく勉強好きだった。さらに彼の偉いところは、とても謙虚な人間だったことだ。孔圉の死後、衛国の君主は後世の人が彼の好学精神を学び発揚するように、特別に彼に“文公”の称号を授けた。それで、後世の人は彼を“孔文子”の尊称で呼ぶようになった。
孔子の弟子の子貢も衛国の人だった。しかし、彼は孔圉はそのような高い評価にふさわしくないと考えていた。あるとき、彼は孔子に尋ねた。「孔圉の学問と才能はすぐれているとは言え、彼より傑出した人は多くいます。どうして孔圉は“文公”の称号を賜ったのでしょうか?」孔子はそれを聞くと微笑みながら答えた。「孔圉はとても勤勉だった。頭がよくて回転が速いだけでなく、何かわからないことがあれば、相手の地位や学問が自分より下であっても、おおらかに気にもかけず、謙虚に教えを請うた。そんなことでは全く恥ずかしいとも思わなかったというところが、彼の偉いところだ。そのために彼は“文公”の称号を賜ったのだ。決してふさわしくないことなどはない。」孔子のこの説明を聞いて、子貢もついには納得したのであった。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=194
孔子の弟子の子貢も衛国の人だった。しかし、彼は孔圉はそのような高い評価にふさわしくないと考えていた。あるとき、彼は孔子に尋ねた。「孔圉の学問と才能はすぐれているとは言え、彼より傑出した人は多くいます。どうして孔圉は“文公”の称号を賜ったのでしょうか?」孔子はそれを聞くと微笑みながら答えた。「孔圉はとても勤勉だった。頭がよくて回転が速いだけでなく、何かわからないことがあれば、相手の地位や学問が自分より下であっても、おおらかに気にもかけず、謙虚に教えを請うた。そんなことでは全く恥ずかしいとも思わなかったというところが、彼の偉いところだ。そのために彼は“文公”の称号を賜ったのだ。決してふさわしくないことなどはない。」孔子のこの説明を聞いて、子貢もついには納得したのであった。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=194
商朝末期、紂王は酒色におぼれ、残虐極まり、人民はとても苦しんでいた。大臣姜子牙は紂王の乱行悪事に我慢がならず、渭水のほとりに身を潜め隠居生活を送ることにした。
渭水一帯は諸侯姫昌の管轄範囲だった。姫昌は胸に大志を抱き、人材を重んじた。姫昌の気を引くため、姜子牙は毎日毎日川辺に座って釣りをしていた。彼の釣り針はまっすぐで、エサもついておらず、水面から3尺離れていたのだった。彼は釣りをしながら言った。「魚よ、早く針にかかってくれ!」親切な人が彼に、こんな釣り方じゃ釣れないと教えてやると、姜子牙はただ笑ってこう言うだけだった。「魚が自分で針にかかってくるはずなのじゃ。」人々は彼を嘲笑ったが、彼は気にも留めなかった。そしてこのことが姫昌の耳に達すると、姫昌は彼が才能のある奇人ではないかと思い、彼を呼び寄せるために兵士を遣わした。姜子牙はこの兵士を見ても、構いもせずに釣りを続けた。口の中では「釣、釣、釣、魚がかからんなぁ。小エビが邪魔をしやがる!」兵士はこのことを帰って報告するしかなかった。そこで姫昌は今度は大臣を遣わした。姜子牙は大臣が来たのを目にしたが、依然相手もせず、「釣、釣、釣、大物がかからんなぁ。雑魚ばっかりじゃ!」とつぶやいていた。大臣もこれでは帰って報告するしかなかった。ついに、姫昌はたくさんの手土産を用意して、自ら姜子牙を訪問することにした。姜子牙は彼が間違いなく誠心誠意、心から有能な人材を求めているのだということを見て取り、彼を補佐することを約束した。姫昌は尊敬の念を示すために、彼を太公に封じた。その後、姜子牙は文王、武王の補佐を続け、商朝の支配を覆し、中国史上最も長い周朝を打ち立てた。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=195
渭水一帯は諸侯姫昌の管轄範囲だった。姫昌は胸に大志を抱き、人材を重んじた。姫昌の気を引くため、姜子牙は毎日毎日川辺に座って釣りをしていた。彼の釣り針はまっすぐで、エサもついておらず、水面から3尺離れていたのだった。彼は釣りをしながら言った。「魚よ、早く針にかかってくれ!」親切な人が彼に、こんな釣り方じゃ釣れないと教えてやると、姜子牙はただ笑ってこう言うだけだった。「魚が自分で針にかかってくるはずなのじゃ。」人々は彼を嘲笑ったが、彼は気にも留めなかった。そしてこのことが姫昌の耳に達すると、姫昌は彼が才能のある奇人ではないかと思い、彼を呼び寄せるために兵士を遣わした。姜子牙はこの兵士を見ても、構いもせずに釣りを続けた。口の中では「釣、釣、釣、魚がかからんなぁ。小エビが邪魔をしやがる!」兵士はこのことを帰って報告するしかなかった。そこで姫昌は今度は大臣を遣わした。姜子牙は大臣が来たのを目にしたが、依然相手もせず、「釣、釣、釣、大物がかからんなぁ。雑魚ばっかりじゃ!」とつぶやいていた。大臣もこれでは帰って報告するしかなかった。ついに、姫昌はたくさんの手土産を用意して、自ら姜子牙を訪問することにした。姜子牙は彼が間違いなく誠心誠意、心から有能な人材を求めているのだということを見て取り、彼を補佐することを約束した。姫昌は尊敬の念を示すために、彼を太公に封じた。その後、姜子牙は文王、武王の補佐を続け、商朝の支配を覆し、中国史上最も長い周朝を打ち立てた。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=195
小巫遇見大巫(小物が大物の前に出るといよいよ小さく見えること)
2004年11月21日 連載 三国時代、東呉の孫権の身辺には名将張フツ(糸へんに祓のつくりを書く)がいた。彼はとても才能のある人物で、詩を書くのが上手なだけでなく、賦(韻文と散文を総合したスタイルの文)を作るのにも優れていて、当時の有名な文学者陳琳と同郷であった。陳琳の著書に≪武庫賦≫があったが、張フツがそれを読み終わり、とてもすばらしいと思い、陳琳の文才を称賛する手紙を書いた。陳琳は返信でこう書いた。「私は河北に住んでおり、ほとんど天下とは隔絶された状態です。ここには文章を書く人も少なく、すぐに注目を浴びます。そういうわけなので、私の文筆がいいとかではなく、あなたの褒め過ぎなのです。私などあなたや張昭様のお2人と比べれば、ほんとうにひどく見劣りがします。まるで小物の祈祷師が大物の祈祷師に会って、法術を使うのも恥ずかしい、といったようなことなのでございます。」
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=196
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=196
口若懸河(弁舌がよどみない形容。立て板に水)
2004年11月19日 連載 晋の時代、とても学問のある学者がいた。その名は郭象と言った。彼はまだ幼いころから頭角を現し、10代で≪老子≫、≪荘子≫などの古書を読み終わっただけでなく、一息で暗誦までできた。
郭象の噂は次第に広まり、朝廷から使いが来て彼は官職に請われた。断ることもできず承諾すると、黄門侍郎という地位を得た。彼は平素からたくさんの本を読んでいたので、知識がとても豊富で、日常生活の細部にまでそれを応用するのが好きだった。そのため、彼の意見は他の人のものより本質を突いていて、さまざまな理論もわかりやすく説明できた。それで彼はたくさんの人から尊敬されていた。郭象は弁舌の才能もあり、話し方はよどみなく、活き活きとして、みな熱心にその話を聞いた。その中に王衍という太尉がいた。彼は郭象の話を聞き終わった後、しみじみとこう言った。「郭象の話を聞くのは、滝の水が流れ落ちるのを見ているかのようだ。滔々として絶えず、永遠に止まることを知らない。」
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=197
郭象の噂は次第に広まり、朝廷から使いが来て彼は官職に請われた。断ることもできず承諾すると、黄門侍郎という地位を得た。彼は平素からたくさんの本を読んでいたので、知識がとても豊富で、日常生活の細部にまでそれを応用するのが好きだった。そのため、彼の意見は他の人のものより本質を突いていて、さまざまな理論もわかりやすく説明できた。それで彼はたくさんの人から尊敬されていた。郭象は弁舌の才能もあり、話し方はよどみなく、活き活きとして、みな熱心にその話を聞いた。その中に王衍という太尉がいた。彼は郭象の話を聞き終わった後、しみじみとこう言った。「郭象の話を聞くのは、滝の水が流れ落ちるのを見ているかのようだ。滔々として絶えず、永遠に止まることを知らない。」
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=197
大義滅親(正義のためには親兄弟の情けも顧みないこと)
2004年11月18日 連載 衛庄公の妾に州吁という名の息子がいた。小さいころから寵愛を受けていたが、正業にも就かず、1日中ただ剣や槍を持って踊り遊んでいた。そのころ、大夫石[石昔]にも石厚という息子がいた。州吁とは意気投合して悪さをしでかし、とても仲がよかった。その後、衛庄公が亡くなり、公子完が位を継いで衛恒公となった。このとき、石[石昔]は年もとり、州吁の行いに不満も感じていたので、隠居を願い出て故郷に帰った。
ある日、衛恒公は、周王に見るため洛邑に赴いた。州吁と石厚は見送りを装って衛恒公を殺し、王位を奪った。しかし彼らは人心を掌握できなかったので、石[石昔]に人心を落ち着かせてくれるよう援助を願い出た。石[石昔]は助けを求めてきた息子に対して言った。「お前たちは陳恒公の援助をもらって、周王の目の前で説明をし、周王の賛同を得るのじゃ。」石厚と州吁は貢物を持って陳国に赴いた。そこでは石[石昔]が裏から陳恒公に手を回し、君王殺しの犯人を捕らるように密告していたのだった。石厚と州吁は陳国に到着するなりすぐに捕まってしまった。そして、陳王は人を遣わして、この犯人2人をどうしたらよいか尋ねさせた。石[石昔]は「この坊主どもは不忠不孝の輩。生かしておいて何の役に立ちましょうか?」と答え、2人を殺させた。石[石昔]はこのようにして後代の人々の称賛を得た。後に人々はこのような行為を「大義滅親」と呼ぶようになった。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=198
ある日、衛恒公は、周王に見るため洛邑に赴いた。州吁と石厚は見送りを装って衛恒公を殺し、王位を奪った。しかし彼らは人心を掌握できなかったので、石[石昔]に人心を落ち着かせてくれるよう援助を願い出た。石[石昔]は助けを求めてきた息子に対して言った。「お前たちは陳恒公の援助をもらって、周王の目の前で説明をし、周王の賛同を得るのじゃ。」石厚と州吁は貢物を持って陳国に赴いた。そこでは石[石昔]が裏から陳恒公に手を回し、君王殺しの犯人を捕らるように密告していたのだった。石厚と州吁は陳国に到着するなりすぐに捕まってしまった。そして、陳王は人を遣わして、この犯人2人をどうしたらよいか尋ねさせた。石[石昔]は「この坊主どもは不忠不孝の輩。生かしておいて何の役に立ちましょうか?」と答え、2人を殺させた。石[石昔]はこのようにして後代の人々の称賛を得た。後に人々はこのような行為を「大義滅親」と呼ぶようになった。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=198
力不從心(やりたいけれども実力が伴わない。意余って力足らず)
2004年11月17日 連載 東漢のころ、班超は明帝の派遣によって数十人のお伴を連れて西域に使節として出かけ、たくさんの功績を打ち立てた。しかし、西域に27年も住んでいた班超は、年もとり、からだも壊し、故郷に帰りたいと思うようになった。そこで手紙を書いて、息子に持たせ漢朝に届けた。そこには彼を戻してくれるように、という皇帝への願いが託されていたのだが、班超はずっと返事をもらうこともなかった。そこで、今度は妹が書面を奉り、皇帝に兄の気持ちを伝えた。
手紙の中にはこう書いてあった。「班超は彼といっしょに西域に行った人間の中ではいちばんの高齢です。現在すでに還暦を越えております。からだも衰え病気がち、頭は白髪まじり、両手は思うような動きができず、耳も遠くなり、目も以前ほど見えなくなって、歩くのにも杖が必要な始末。もし突然反乱が起こったりすれば、国家のために力を尽くしたいという班超の気持ちとは裏腹の結果になるかもしれません。こんなことをしていると、上は国が新疆を治めていた成果に傷をつけるかも知れず、下は忠臣としてやっと打ち立てた功績を台無しにするかもしれません。なんとやるせないことでしょう。」手紙を読んで感じ入った漢和帝は、すぐに班超を漢朝へ呼び戻す命令を出した。班超が洛陽に戻ると、1ヶ月もしないうちに、胸の病が重くなりこの世を去った。享年71歳であった。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=199
手紙の中にはこう書いてあった。「班超は彼といっしょに西域に行った人間の中ではいちばんの高齢です。現在すでに還暦を越えております。からだも衰え病気がち、頭は白髪まじり、両手は思うような動きができず、耳も遠くなり、目も以前ほど見えなくなって、歩くのにも杖が必要な始末。もし突然反乱が起こったりすれば、国家のために力を尽くしたいという班超の気持ちとは裏腹の結果になるかもしれません。こんなことをしていると、上は国が新疆を治めていた成果に傷をつけるかも知れず、下は忠臣としてやっと打ち立てた功績を台無しにするかもしれません。なんとやるせないことでしょう。」手紙を読んで感じ入った漢和帝は、すぐに班超を漢朝へ呼び戻す命令を出した。班超が洛陽に戻ると、1ヶ月もしないうちに、胸の病が重くなりこの世を去った。享年71歳であった。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=199
十面埋伏(十面埋伏の計)
2004年11月16日 連載 秦代末期、韓信は楚軍の隊列の属し、幾多の戦争に参戦していたが、とうとう重用されることはなかった。その後、楚軍は項羽の指揮するところとなったが、項羽もなかなか韓信を重用しようとはしなかった。このため彼は劉邦の率いる漢軍に身を投じ活路を見出す決意をした。韓信はもともと有名な人物ではなかったので、漢軍の中に入った後もチャンスに恵まれなかった。長い間待ったがやはり音沙汰もなく、とうとうしかたなく怒りの気持ちを抱きながら、何も言わずに去って行った。漢軍の大将蕭何は韓信が得がたい人材であることを見抜いていたので、すぐに早馬に鞭をあて韓信を追いかけて連れ戻した。そして漢王に韓信を大将に抜擢するよう上申した。
韓信は大将になった後、関中の三秦の地を手に入れた。韓信が斉国を打ち破ったころ、漢王はちょうど項羽を窮地に追い込んでいた。このとき韓信は自分を斉王にするように要求した。漢王は承諾せざるを得なかった。韓信は30万の軍を率いて蘇北を攻め落とし、項羽の楚軍を垓下において包囲した。勇敢な項羽に対してはもっぱら一歩一歩慎重な戦術を用い、ついには項羽の楚軍を打ち破った。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=200
韓信は大将になった後、関中の三秦の地を手に入れた。韓信が斉国を打ち破ったころ、漢王はちょうど項羽を窮地に追い込んでいた。このとき韓信は自分を斉王にするように要求した。漢王は承諾せざるを得なかった。韓信は30万の軍を率いて蘇北を攻め落とし、項羽の楚軍を垓下において包囲した。勇敢な項羽に対してはもっぱら一歩一歩慎重な戦術を用い、ついには項羽の楚軍を打ち破った。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=200
人面桃花(あなたのお顔と桃の花)
2004年11月14日 唐の時代、都に科挙を受けに来た知識人がいた。あるとき、彼は都の南部の郊外に遊びに行った。そこできれいで小さな部屋を見つけ、口実を作ってのぞきに入った。そして部屋にいた娘に一目惚れしてしまった。次の年の清明節、彼はまたその部屋を訪れたが、扉は閉ざされ、娘はどこへ行ってしまったのやら。そこで、筆を執り一首したためた。「去年の今日 此の門の中 人面 桃花 相映じて紅なり 人面 祗だ今 何れの処にか去る 桃花 旧に依りて 春風に笑む」と。そしてすぐに引き返した。
何日かたって、諦めきれない彼はまたその場所にやって来た。今度は扉がしっかりとは閉ざされておらず、娘の父親の姿が見えた。娘の父親はやつれた表情で言った。「私の娘はあなたが書いた詩を見て恋わずらいをし、とうとう死んでしまいました。」彼はこの話を聞いてとてもショックを受け、こらえきれずに彼女を抱きしめて泣きじゃくった。なんとこのとき、娘は目を覚まし生き返った。彼女は意識不明に陥っていただけだったのだ。その後まもなく、病が癒えた娘はその知識人と結婚したのだった。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=201
何日かたって、諦めきれない彼はまたその場所にやって来た。今度は扉がしっかりとは閉ざされておらず、娘の父親の姿が見えた。娘の父親はやつれた表情で言った。「私の娘はあなたが書いた詩を見て恋わずらいをし、とうとう死んでしまいました。」彼はこの話を聞いてとてもショックを受け、こらえきれずに彼女を抱きしめて泣きじゃくった。なんとこのとき、娘は目を覚まし生き返った。彼女は意識不明に陥っていただけだったのだ。その後まもなく、病が癒えた娘はその知識人と結婚したのだった。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=201
人死留名(人は死して名を残す)
2004年11月12日 連載 王彦章は五代の人だった。彼は若いころ梁太祖に随行して戦い、少なからぬ戦功を立てた。太祖の死後は末帝のために梁朝の国家基盤をゆるぎないものにし、その功績はかなりのものだった。しかし、王彦章が2度続けて後唐攻略に失敗したのを機会に、日頃から彼に反感を抱いていた者たちは、末帝に王彦章の悪口を言った。ついには王彦章は軍の指揮権を取り上げられた。半年もたたないうちに、後梁は国家の危機に瀕することになり、再度王彦章の出馬を請うことになった。
あるとき、王彦章は唐兵に生け捕りにされた。後唐庄宗は彼の才能を買って、将校になってくれと頼んだ。王彦章は言った。「将校になるような人間なら、朝にこちらの国で力を尽くし、夜にはもう一方の国で仕事をする、といったようなことはしないでしょう。どうか王様、私に一太刀下してください。恨み言は申しません。ただ光栄に思うだけでございます。」とうとう彼は死ぬことになってしまったが、死んだ後にはすばらしい名声を残すことになった。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=202
あるとき、王彦章は唐兵に生け捕りにされた。後唐庄宗は彼の才能を買って、将校になってくれと頼んだ。王彦章は言った。「将校になるような人間なら、朝にこちらの国で力を尽くし、夜にはもう一方の国で仕事をする、といったようなことはしないでしょう。どうか王様、私に一太刀下してください。恨み言は申しません。ただ光栄に思うだけでございます。」とうとう彼は死ぬことになってしまったが、死んだ後にはすばらしい名声を残すことになった。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=202
人心如面(人の心は顔の如し)
2004年11月11日 連載 春秋時代、鄭国の執政者子皮は尹何を大夫に任用しようと思っていた。そのとき、多くの人は尹何は若すぎる上に官職にも就いたことがないので、能力不足だろうと考えていた。しかし子皮はそうは考えなかった。「彼の誠実さは称賛に値する。彼は必ず私の期待に応えてくれると信じているし、今が彼にとってちょうどよい勉強の機会だと思う。」と彼は言った。子皮のもうひとりの大臣の子産は落ち着いてこう答えた。「王様がお考えのように、若い者を育てることはよいことです。しかし、かえって彼自身のためにならないこともあるのです。ちょうど包丁の使い方を知らない者に、肉を切らせると自分の指を切ってしまうように。国を治めるということも同じなのです。もし尹何が正式に大夫に就任する前にもう少し勉強する機会を与えれば、彼が仕事に就いたときには、きっと秩序だった仕事ができるようになっているでしょう。もしそうしなければ、国に思わぬ損害を与えてしまいます。」子皮は子産の話を聞き、はっとして言った。「そなたの話はとても道理にかなっておる。これからはことあるごとにそなたの意見を聞くことにしよう。そうすれば大きな間違いはなかろうからな。」意外なことに謙虚な子産は首を振りながらこう言った。「人の考え方は外見と同じく人それぞれ異なります。私の意見はご参考までに!」
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=203
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入室操戈(その人の言葉でその人に反論する)
2004年11月11日 連載 後漢時代、有名な文学者で教育家でもある鄭玄という人がいた。彼は小さいころから勤勉で勉強好きだった。太守杜密は彼が見込みのある人材だと思って、彼を太学に入れて勉強できるように推薦した。その後鄭玄は大文学者の馬融を師と仰ぎ、彼の門下で学んだ。鄭玄が学成りそこを出て行くとき、馬融は感慨にふけりながら言った。「鄭玄が出て行く、私の知識をすべて持ち去って行く。」と。
鄭玄は家で学問研究に励んでいた。彼と経学を研究していた何休は親友だった。何休は≪公羊墨守≫、≪左氏膏盲≫、≪谷梁廃疾≫という3篇の文章を書いた。鄭玄はそれを読み終わると、彼の意見に反対し、≪発墨守≫、≪針膏盲≫、≪起癈疾≫という文章を書いて、何休に反論した。何休は読み終わると、鄭玄が自分の文章中の観点を利用して自分の意見に反論していることを知った。その上、筋道が通っており、残念ながらこう言わざるをえなかった。「あなたは私の部屋に入ってきて、私の武器を使って、私を攻めているんじゃないのですか?」と。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=204
鄭玄は家で学問研究に励んでいた。彼と経学を研究していた何休は親友だった。何休は≪公羊墨守≫、≪左氏膏盲≫、≪谷梁廃疾≫という3篇の文章を書いた。鄭玄はそれを読み終わると、彼の意見に反対し、≪発墨守≫、≪針膏盲≫、≪起癈疾≫という文章を書いて、何休に反論した。何休は読み終わると、鄭玄が自分の文章中の観点を利用して自分の意見に反論していることを知った。その上、筋道が通っており、残念ながらこう言わざるをえなかった。「あなたは私の部屋に入ってきて、私の武器を使って、私を攻めているんじゃないのですか?」と。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=204
九牛一毛(大多数の中のごく少数)
2004年11月8日 連載 西漢時代、李陵という有名な将軍がいた。彼は漢武帝の命を受け、軍を率いて匈奴を攻めた。しかし、兵力が不足していたため戦に負けて投降した。武帝はこのことを聞いてとても怒った。李陵が功を立てることができなかったばかりでなく、簡単に敵に降参してしまったのだと思ったのだ。他の大臣たちも口々に李陵の不忠をなじった。ただ太史令司馬遷だけは李陵の肩を持った。彼は李陵のために遠慮せずに言った。「李陵将軍は孤軍奮闘し、出兵し敵を討つときにはいつも、よい成績を収められた。しかるに今回は、李広利(正面主力部隊の将軍)の協力を得られなかった。500名の歩兵は8万の匈奴軍に取り囲まれながらも、死をも恐れずに立ち向かった。その上十数日続いた戦において、敵兵1万を殺傷したのだ。軍の食料と馬草が尽きて偽装投降せざるを得なかったのだ。このような戦績はなかなか打ち立てられるものではない。李陵殿はほんとうにすばらしい将軍だ。少なくとも彼の功績を以ってすれば、彼の罪は帳消しにしてもよいようなものだ。」
漢武帝は司馬遷が李陵のために弁解しただけでなく、武帝の親族の李広利のことまで悪く言ったのを聞きつけ、烈火の如く怒り、即刻牢に放り込み、すぐに司馬遷に対し、その当時最も残酷で最も恥辱的な宮刑を科す判決を下した。司馬遷はこのようなひどい目に遭い、屈辱を受けて、何度も自殺を試みた。しかし自分がこんな状態になって、たとえ死んだところで、他の者の目には“九牛の一毛”にしか映らないだろう。それだけでなく誰からも同情さえされず、あざ笑われるのがおちだ、と思った。そこで、彼は腹を決め、勇気を持って生き抜くことにした。そして最後には≪史記≫数千年の間史学史上に名を残すような著作を完成したのだった。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=205
漢武帝は司馬遷が李陵のために弁解しただけでなく、武帝の親族の李広利のことまで悪く言ったのを聞きつけ、烈火の如く怒り、即刻牢に放り込み、すぐに司馬遷に対し、その当時最も残酷で最も恥辱的な宮刑を科す判決を下した。司馬遷はこのようなひどい目に遭い、屈辱を受けて、何度も自殺を試みた。しかし自分がこんな状態になって、たとえ死んだところで、他の者の目には“九牛の一毛”にしか映らないだろう。それだけでなく誰からも同情さえされず、あざ笑われるのがおちだ、と思った。そこで、彼は腹を決め、勇気を持って生き抜くことにした。そして最後には≪史記≫数千年の間史学史上に名を残すような著作を完成したのだった。
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一諾千金(約束は必ず守る、一度引き受けた以上必ずやり遂げる)
2004年11月7日 連載 秦代末期、楚国に季布という人がいた。彼は性格がまっすぐで、信用をとても重んじた。彼は引き受けたことは必ずやり遂げるよう努力した。このため多くの人から称賛を受け、みな彼を尊敬していた。
彼は以前、項羽の軍で将校を務めていて、兵を率いて何度も劉邦を打ち破っていた。そのため、劉邦が漢朝をうち建て、皇帝になったとき、季布を捕らえるよう命令を出し、「季布を捕らえた者には黄金千両を与える。季布をかくまった者は三族断絶の罰を課す。」と宣言した。しかし、季布は人柄は正直で、いつも義侠を果たしていたので、みな彼をかばおうとした。最初、季布は親友の家に隠れていたが、しばらくすると、彼を捕らえよ、という噂がだんだんと伝わってきたので、親友は彼の頭を剃り、奴隷の格好をさせ、数十人の召使いの少年といっしょに魯国の朱家に売りに出し、そこで働かせた。
朱家の主人は季布の人柄に惚れ込んで、わざわざ洛陽まで出かけて行って、劉邦の親友の汝陰侯滕公に劉邦へのとりなしを願い出て、季布の指名手配を解除してもらえるように頼んだ。その後、劉邦は申し出の通りに季布を赦免した上、更に彼に官職を与えた。季布と同郷の曹邱生という人がいた。彼は平素から権勢を備えた友人と行き来するのが好きだった。そこで、人に頼んで季布へ紹介状を書いてもらい、季布との交友を願い出た。しかし、季布はひと目見るなり彼に反感を抱き、まったく曹邱生の相手をしようとしなかった。しかし、彼は季布のいやな顔を見て見ぬ振りをして、何事もなかったように続けた。「あなたもご存知の通り、私たちはともに楚国の人間だ。人は『季布の承諾を得るのは、黄金百両を手に入れるより難しい』と言っている。これは私が行く先々で宣伝して回ったためだ。それなのに、あなたはどうして私に会うことを拒絶し続けるのですか。」季布は曹邱生の話を聞いて、とても喜び、すぐに態度を変えて彼を上客としてもてなした。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=206
彼は以前、項羽の軍で将校を務めていて、兵を率いて何度も劉邦を打ち破っていた。そのため、劉邦が漢朝をうち建て、皇帝になったとき、季布を捕らえるよう命令を出し、「季布を捕らえた者には黄金千両を与える。季布をかくまった者は三族断絶の罰を課す。」と宣言した。しかし、季布は人柄は正直で、いつも義侠を果たしていたので、みな彼をかばおうとした。最初、季布は親友の家に隠れていたが、しばらくすると、彼を捕らえよ、という噂がだんだんと伝わってきたので、親友は彼の頭を剃り、奴隷の格好をさせ、数十人の召使いの少年といっしょに魯国の朱家に売りに出し、そこで働かせた。
朱家の主人は季布の人柄に惚れ込んで、わざわざ洛陽まで出かけて行って、劉邦の親友の汝陰侯滕公に劉邦へのとりなしを願い出て、季布の指名手配を解除してもらえるように頼んだ。その後、劉邦は申し出の通りに季布を赦免した上、更に彼に官職を与えた。季布と同郷の曹邱生という人がいた。彼は平素から権勢を備えた友人と行き来するのが好きだった。そこで、人に頼んで季布へ紹介状を書いてもらい、季布との交友を願い出た。しかし、季布はひと目見るなり彼に反感を抱き、まったく曹邱生の相手をしようとしなかった。しかし、彼は季布のいやな顔を見て見ぬ振りをして、何事もなかったように続けた。「あなたもご存知の通り、私たちはともに楚国の人間だ。人は『季布の承諾を得るのは、黄金百両を手に入れるより難しい』と言っている。これは私が行く先々で宣伝して回ったためだ。それなのに、あなたはどうして私に会うことを拒絶し続けるのですか。」季布は曹邱生の話を聞いて、とても喜び、すぐに態度を変えて彼を上客としてもてなした。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=206
一揮而成(文章をすばやく書き上げるさま)
2004年11月2日 文天祥は南寧の人だった。20歳のとき、集英殿での殿試では、朝廷の不正に対して皇帝に忠言した。皇帝は彼の意見に感激して褒美を与えた。このときの試験では文天祥は一番の成績だった。
文天祥はかつて地刑部郎官、右丞相を歴任し、朝廷の恩に報いるよう一心に努力した。元軍が江南に侵入したとき、文天祥は不運にも捕虜となった。敵は彼に部下を呼び投降させるよう手紙を書かせようとしたが、文天祥は投降するどころか、敵をこっぴどく叱りつけたのだった。敵は縄で文天祥を縛り上げた。獄中で文天祥は短時間のうちに有名な詩を書き上げたことがある。≪過零汀洋≫の最後の2句では、“人生自古誰無死、留取丹心照汗青”(“汗青”は“史書”の別称)(=人生は昔から終わりのないものはない、願わくは忠義の真心が長く歴史に輝くようにさせたいものだ)という言葉で、たとえ死ぬことになっても、軽々しく敵に投降したりはしない、という意志を表した。このようにしてこそ天地に恥じることなく顔向けができるのだ。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=207
文天祥はかつて地刑部郎官、右丞相を歴任し、朝廷の恩に報いるよう一心に努力した。元軍が江南に侵入したとき、文天祥は不運にも捕虜となった。敵は彼に部下を呼び投降させるよう手紙を書かせようとしたが、文天祥は投降するどころか、敵をこっぴどく叱りつけたのだった。敵は縄で文天祥を縛り上げた。獄中で文天祥は短時間のうちに有名な詩を書き上げたことがある。≪過零汀洋≫の最後の2句では、“人生自古誰無死、留取丹心照汗青”(“汗青”は“史書”の別称)(=人生は昔から終わりのないものはない、願わくは忠義の真心が長く歴史に輝くようにさせたいものだ)という言葉で、たとえ死ぬことになっても、軽々しく敵に投降したりはしない、という意志を表した。このようにしてこそ天地に恥じることなく顔向けができるのだ。
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一敗塗地(一敗地にまみれる、再び立つことができないほど大敗する)
2004年11月1日 連載漢高祖劉邦は江西の人だった。秦代の末ごろ、泗水亭亭長(秦代の制度。10里に1亭、10亭に1郷を設ける。亭長とは後の時代の“保甲(=隣組制度)”長や村長のようなもの)に任命された。
あるとき、彼は命を受け民工の一団を連れて秦始皇帝の陵墓を建造しに行った。途中、毎日たくさんの民工が逃亡した。劉邦は知恵のある人だったので、民工が全員逃げ出してしまったら自分が罪をかぶせられるだろうと考えた。そこで、彼は皆に「お前たちは驪山へ行ってつらい仕事をするのだ。たとえ疲労から死んでしまうことがなかったとしても、いつになったら故郷に帰れるかわからない。さあ、お前たち、自分たちで活路を開け!」と言った。
当時の秦2世皇帝は残虐だった。陳勝が反乱軍が陳県を攻め落とし、そこの県令は陳勝を頼って手下になろうと考えたが、指導者にもなりたかった。そこで彼の部下は彼に劉邦の味方につくように進言し、彼はそれに従った。劉邦が城外に到着したとき、彼は気が変わり城門を閉鎖するよう命令し、2人の部下を殺してしまった。劉邦はこれを知って手紙をしたため城内に弓矢とともに射込んだ。そして城内の民衆を動員して県令を殺してしまった。その後人々は彼を県長に推挙した。劉邦はみなの手助けによって、その後まもなく沛県で正式に武装蜂起した。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=208
あるとき、彼は命を受け民工の一団を連れて秦始皇帝の陵墓を建造しに行った。途中、毎日たくさんの民工が逃亡した。劉邦は知恵のある人だったので、民工が全員逃げ出してしまったら自分が罪をかぶせられるだろうと考えた。そこで、彼は皆に「お前たちは驪山へ行ってつらい仕事をするのだ。たとえ疲労から死んでしまうことがなかったとしても、いつになったら故郷に帰れるかわからない。さあ、お前たち、自分たちで活路を開け!」と言った。
当時の秦2世皇帝は残虐だった。陳勝が反乱軍が陳県を攻め落とし、そこの県令は陳勝を頼って手下になろうと考えたが、指導者にもなりたかった。そこで彼の部下は彼に劉邦の味方につくように進言し、彼はそれに従った。劉邦が城外に到着したとき、彼は気が変わり城門を閉鎖するよう命令し、2人の部下を殺してしまった。劉邦はこれを知って手紙をしたため城内に弓矢とともに射込んだ。そして城内の民衆を動員して県令を殺してしまった。その後人々は彼を県長に推挙した。劉邦はみなの手助けによって、その後まもなく沛県で正式に武装蜂起した。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=208
一衣帯水(一本の帯のように狭い川や海、またはそれによって隔てられていること)
2004年10月31日 連載南朝も末ごろ、陳国は長江以南に位置していた。隋文帝楊堅は長江以北に住んでいた。そのころ、隋文帝楊堅は全国統一の戦を進めていた。長江の流れが広大なので、楊堅の軍隊は河を渡って江南に進むことができなかった。そのため陳国を討つことはできなかった。しかし、隋文帝楊堅はそんなことではめげず、江南を望み、きっぱりと言った。「私は人民の親である。1本の帯のような河があるからと言って、私が彼らを救うのを妨げられるものか。」そして楊堅は船を造るように命じ、ついに陳国を滅ぼし、全国を統一した。
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=209
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一日三秋(一日千秋、待ち遠しい気持ちをいう)
2004年10月30日 連載 コメント (1)詩経は 中国の有名な著作だが、実はどれも当時民間に広まっていた古代歌謡である。その中には多くの愛情を讃え、男女間の恋愛の物語が含まれている。
詩経の中に≪採葛≫という詩がある。これは人を慕う思いをつづった詩で、男女が別れ別れになった後、心の中の相手に対する深い思いを歌っている。全詩の意味はこのようなものだ。
私は昼も夜もあの人を思っています
あなたは今外で葛を摘んでいます
もし私があなたに会えない日があったとしたら
それはまるで3月もあなたに会っていないようなものです
私は昼も夜もその人のことを思っています
あなたは今外でカサカサと音を立てる草を摘んでいます
もし私があなたに会えない日があったとしたら
それはまるで9ヶ月もあなたに会っていないようなものです
私は昼も夜もあの人のことを思っています
あなたは今外でヨモギを摘んでいます
もし私があなたに会えない日があったとしたら
もし私があなたに会えない日があったとしたら
それはまるで3年もあなたに会っていないようなものです
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=210
詩経の中に≪採葛≫という詩がある。これは人を慕う思いをつづった詩で、男女が別れ別れになった後、心の中の相手に対する深い思いを歌っている。全詩の意味はこのようなものだ。
私は昼も夜もあの人を思っています
あなたは今外で葛を摘んでいます
もし私があなたに会えない日があったとしたら
それはまるで3月もあなたに会っていないようなものです
私は昼も夜もその人のことを思っています
あなたは今外でカサカサと音を立てる草を摘んでいます
もし私があなたに会えない日があったとしたら
それはまるで9ヶ月もあなたに会っていないようなものです
私は昼も夜もあの人のことを思っています
あなたは今外でヨモギを摘んでいます
もし私があなたに会えない日があったとしたら
もし私があなたに会えない日があったとしたら
それはまるで3年もあなたに会っていないようなものです
http://history.1001n.com.cn/news/news.asp?id=210
龍母(ペー族の伝説)
2004年10月28日 言い伝えによると、龍母はもともと柴刈り娘だったのだという。母親とともに緑桃村に住み、畑を耕し作物を作っていた。ある年土地の凹凸を飛び越えてきた黒龍が[シ耳]海の源に居座ってしまい、大理(雲南省の都市)は一面水浸しになってしまった。人々は安心して住まうことができなくなり、次々とよその土地に移っていった。母と娘には助けてくれる人もなく、逃げる手立てもなく、蒼山の蘭峰に行って柴や草を刈って生計を立てていくしかなかった。ある日、娘はのどが渇いたので、木に緑色の大きな桃がなっているのを見て、それをもいで口に放り込んだ。桃はおなかの中にするりと入った。そして、彼女は子供をはらみ、男の子を産んだ。娘は笑い者になるのではないかと思い、男の子を山深いところに捨ててしまった。山のうわばみが毎日その子に食事を与えたので、飢え死にを免れて、天真爛漫に育った。龍母は彼のことが忘れられず、彼を抱いて連れて帰って育てた。大きくなってからは龍母といっしょに山へ行き柴刈りや草刈りを手伝った。龍母と息子があるとき草刈から帰って龍潭のほとりでひと休みしていると、龍王の病気の知らせが舞い込んだ。息子は龍宮に招き入れられ、仙草で龍王の病を治した。龍宮にいるとき、息子は好奇心から、龍王の着物を着てしまった。すると息子は黄龍に変わり、黒龍を打ち負かし、水害を除き、大理をもとの肥沃な田畑に戻した。緑桃村の人々は彼のために龍王廟を建立し、小黄龍を本尊として祭った。そして小黄龍の母親を龍母と呼ぶようになった。
http://www.zhshw.com/story/2003-12/2003124161753.htm
http://www.zhshw.com/story/2003-12/2003124161753.htm