≪悟空【1】≫

2004年3月1日 連載
  関外ゴビ沙漠のとある旅館。

  旅館はそれほど大きくないが、西域の道とを結ぶ重要な中継地点である。旅館は毎日南北を行き来する旅商人や流れ者などいろいろな職業の人が集まる。旅館の主人は立派なひげをたくわえている。若い世に知られた大人頃は物だったそうだ。こんな大人物だからこそこんなところにこんな旅館をやっていられるのだが。

  この日は、人が特別に多かった。中国人、西域人、騎馬族、ラクダをひっぱる者、白い布を頭に巻いた者、刀を背負っている者、どんな民族でも選り取り見取りだ。彼らは他ならぬ旅館で飲み食いする客たちだ。ひげの主人がカウンターの前に立って、手を叩いた。客たちはみな静かになり彼を見た。主人は客の興味をそそる様子で、よく通る声で言った。「みなさん、本日はこんなににぎやかです。私はみなさんのために出し物をご用意しております。」店内の一癖もふた癖もある客たちがにわかにざわめき出した。主人は笑って、「みなさん、残念ながら本日はお色気嬢のストリップではありません。おとといの夕方店の前で乞食を引き取りました。彼は話したり歌ったりの芸人でございます。そして世の中の変遷を長い間ずっと目にしてきた生き証人でもあります。この芸人の芸はなかなかのものでございますよ。みなさんには思いもよらないでしょうが、彼が話す物語のレベルはこの沙漠の大きさ以上なのです。その夜、私は彼の話を聞いて、思わず引き込まれてしまいました。お茶を飲むのも忘れ、飯を食うのも忘れてしまうほどでございました。」

  ある有名な中国の剣客が言った。「おやじ、そんなにすごいのか?」ひげの主人は笑って、「すごいもすごくないも、ご自分でお聞きになってみてくださいませ。」と言った。その後、2階から三弦を持った年老いた乞食がゆっくりと降りてきた。身なりはボロボロで、幾星霜を過ごした顔色も悪かった。しかし目はらんらんと輝いていた。店内の各人種たちは静かにこの乞食を見ていた。そして乞食の身体から発する言いようのない雰囲気に引き込まれていった。年老いた乞食は抱拳(古来からの儀礼で片手でこぶしを作り胸の前でそれをもう一方の手で包む)して、「皆様、歓迎ありがとうございます。老いぼれ乞食は皆様にお見せするような特別な芸は持ち合わせておりません。ただこの数十年変わった体験をしかことをお話しするだけでございます。皆様がおもしろいと思っていただければ、この老いぼれはうれしいのでございます。」と話した。

written by 白玉堂
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  こんなふうに何気なくラサの大通りを歩いて、しばらくすると北京東路にやってくる。ここはラサの中でも比較的にぎやかで現代的な商店街だ。ショッピングセンターの1階にはコーヒーとデザートの店もある。私はミルクを入れたコーヒーを手にして、ロッキングチェア―に揺られていた。日差しがガラスを通って私のからだを照らし、午後の疲労を取り去ってくれる。ショッピングセンターは広場に面している。見ると踊ったり歌ったりしている人がいる。どうやらおばあさんと孫娘がいっしょに踊っているらしい。彼女たちは長いお下げ髪を三つ編みにして、からだにはチベット族が好む掛け飾りをさげている。おばあさんのしわは忍んできた苦労を物語り、笑い顔は昔のままに花開く。孫娘の瞳は無邪気さと恥じらいを含んでいる。彼女たちの長い袖は陽光の下揺れ動く。不思議なことにおばあさんの歌声と孫娘の高い声は絶妙のハーモニーをかもし出し、飾り気のない歌声が外から途切れずに漂ってくると、真水には本来香りがないことが連想される。たまにしか大きな声を出さないが、舞う姿はとても美しい。軽快な音楽に合わせて優美に舞う、とはたったこれだけのことなのではないだろうか。残念なことに私は楽譜を書くことができないので、この声を持ちかえることができない。ただ心の奥底に留めて、夜更けに人が寝静まった頃私のためだけに再生するのだった……

  私はチベットの人たちの音楽の才能をちょっと不思議にさえ思う。歌が上手で踊りがうまい人が多い民族だ。彼らの音楽は技巧を加える以前のもので、メロディーなどというものはない。原始的な叫びとしか言いようがない。もし王洛賓(漢族の歌手)雷振幇(作曲家)がいなければ、彼らの文化も理解できず、歌声も会得できなかっただろう。しかしラサでは、かなり多くの人が私の好きな曲を何気なしに歌うことができる。ときには私のそばを飛ぶように通り過ぎていく車夫でさえ歌声を道じゅうに撒き散らして行く。この歌声は朱哲琴(歌手)のような魂に語りかけるものとも違うし、鄭均(歌手)のように都会人のラサに対する想像の痕跡を伴ったものでもない。それは太陽の味がする天然果汁のような明るさと清新さもった声だ。時代が違うような感じさえする。まるでかわいらしい妖精が飛び回るようだ。天国の音楽会はこんなふうなものなのではないのだろうか?

  私がこの神秘的な土地と別れを告げるとき、太陽はまだ昇っていなかった。車窓の横には満天の星がキラキラ輝いていた。私は最初、山の上の人家の明かりだと思っていたが、よくよく下をのぞき込んで見ると、黄色い半月が輝いているのだった。空がこんなに近いのだ。キラキラ輝いている星に手が届きそうなくらいだ。ラサ、まさに神仙が住む地、私はこの天国に滞在して、行き交う人々を見、自然界のさまざまな音を聞き、俗世間を徘徊して疲れた心を癒したのだった……

written by 阿依黛
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参考サイト(画像と用語の解説を参考にさせていただきました)
http://www.tibethouse.jp/home.html
  街には何件かインドやネパールの工芸品を売っている店もあった。入り口には大きなインド美女の写真が貼ってある。その美しい目は人の心を惑わさずにはいない。店じゅうにインド音楽が漂うように流れている。その大胆なデザインと独特な形の宝石は心を踊らせる。そこにはインドのスカートまであった。デザインはべトナム娘のアオザイにちょっと似ている。生地は化繊のジョーゼットの一種だろう。首のところには長い襟がついている。全体がピンク色をしたものも、薄水色をしたものもある。おそらく夏物の売れ残りを掛けてあったのだろう。買っていくのはどこの家のお嬢さんなのか。主人の口調は浙江省なまりのように聞こえる。浙江人がチベットでインドの品物を売っているとは、ちょっとおもしろい。おかしいのは、私が麗江(雲南省の景勝地http://www.ljly.org/)にいるときは強烈にチベットが私を呼んでいると感じていたのだが、チベットに来てみると今度は明らかにインドの誘惑を感じるということだ。私は絶えずさすらって行く運命なのかもしれない。前世の私はチベットの遊牧民だったのだろうか?

  大昭寺にはまだたくさんの参拝者がいた。遥か彼方から寺院の読経の声が聞こえる。まるで天の声のようにありがたく心地よく聞こえる。たくさんの遠くからやって来たチベット族の人たちは、ラサの寺院のすべての仏様を参詣し終わると、手にした餅の最後のひとカケを食べ、帰宅の途につく。帰る前に八廓街の写真館で記念写真を記念写真でも撮っているのだろう。お年寄りのおばあさん、ふたりの孫は片方は背が高く、片方はまだ小さい。そしてちょうど働き盛りの年代のお父さん。全員チベットの民族衣装を着ている。写真館の布の背景の前で2列になって並んでいる。背景に描かれているのはポタラ宮殿、上の方には“ラサの思い出”と大きな字で書かれている。彼らの表情はいたってまじめで、みな手にはプラスチックの花を持っている。撮影者は後ろのほうで写真を撮ってもらおうと並んでいる人たちに慌しく券を配る。彼らの写真を撮っている余裕もない様子だが、勝手に自分たちでポーズを取らせている。彼らはまだどれだけ待たなければならないだろう。純朴な彼らはその格好のままカメラの前に立っている。視線さえ動かそうとしない。彼らがこのとき期待して待っているのは、写真だけではないのかもしれない。遥か遠くの家で待っている家族にラサの神聖さとラサに来た驚きと喜びを持ち帰ろうとしているのだろう。

written by 阿依黛
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  ラサの街にはたくさんの小さな甜茶館がある。紅茶に牛乳を加えていれるのだそうだ。おいしくてなめらかで甘い。高原食品に似合わず、濃厚な江南風の口当たりがある。私は常々入ってチベットの人たちといっしょに一杯飲んでみたいと思っていたが、分厚い綿の入り口のカーテンを開けるたびに、中は僧とチベットの人たちでいっぱいだった。だいたいは空席がない。店を変えてほかの面白いことを考えなければならなかった。あるチベット族でいっぱいという雰囲気のレストランで、私は入り口に旅の道連れ募集のお知らせを見つけた。それは、香港・マカオまで車で行くらしい。ポケットを探ってみると予約済みの航空券があって、ちょっと後悔した。もっと早くわかっていたなら、道中をいっしょしてくれる人ができたのに。でも、彼らといっしょに行って体験してみるのも悪くない。私が深センで下りて、彼らがそのまま香港・マカオまで行けばちょうどいい。なんとよさそうな計画だろう。でもしかたない。今回はあきらめよう。そして、ちょうどそのレストランで、私は現地特産の乳脂をかけた干し赤ナツメとチベット族がいちばん好むご飯の一種のご相伴にあずかった。残念なことにその名前は思い出せないが、とてもいい名前だったので注文したのだった。

  昼の八廓街では、両側の店は全部営業していた。1,100年もの間、ずっとここはチベット最大の交易集散地であった。チベット族はここでどんな生活用品や宗教の必需品でも買うことができる。街には人を引きつけるいろいろな石や装飾品も売られている。辛抱強く探しさえすれば、チベット族の娘が身につけているカランカランと音の出るとても個性的な掛け飾りや、大げさな形の大粒のトルコ石の指輪なんかがみんな手に入る。さらには手作りのきれいな刺繍を施したチベットの民族衣装や、ベスト、7色のストライプの前掛けまである。私はその街でゆっくりと宝捜しをした。何件かの店の主人が私を見て、燃灯祭の夜チベット族のあとについてマニ車を回していた人ではないか、と尋ねられた。初めは笑いながら、そうです、そうです、などと答えていたが、あとでとても恥ずかしくなり、知らないフリをすることにして、違う、違う、私はこの街は初めてです、と答えるようにした。こんな格好をしていると、どこへ行っても目立ちすぎて、何をするにも不都合があるようだ。

written by 阿依黛
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  ある大殿の門の前に来た。チベット族の人たちが長い列をなしている。次から次へとぎっしり並んでいる。ある中国語が聞き取れる女性に尋ねたところ、彼らはとても大切な仏様を参拝するところなのだという。彼女は仏様の名前を言ったが、チベット語の発音だったため、覚えていない。しかし、その前後びっしりとつながったチベット族の列はとても深く印象に残った。

  ある2階建てのベランダから、私は向かい側のベランダに坐ってひなたぼっこをしている子供のラマを眺めていた。そのうちひとりはサングラスをかけていた。彼らふたりはときおり何か言葉を交わしているが、挙動は子供っぽく、私がレンズを向けているのに気がつくと、そのうちひとりが力いっぱい手を振った。とても恥ずかしがっているようで、私は急いでカメラを別の方向に向け、笑いながら手まねでだいじょうぶだから、と彼らに伝えると、やっとのことで私の説得に応じ、ふたりは私のレンズに向かって堅苦しく笑ってくれた……

  階下に下りると、かなりの年齢のラマがつらそうに階段を降りてきた。どうやら80歳から90歳ぐらいだろうか。ふたりの若いラマが彼を支えながら読経をする殿堂に入っていった。若いふたりは彼にお茶を入れ、ゆっくりと彼を坐らせた。卓の前には1冊の厚い経典がある。ほかにも何人かラマが着席し、1列になり、読経が始まった。こんなに近くでラマたちの修行の様子を見るのはこれが初めてだ。頭を下げて警策でたたかれているラマもいる。チベットの人たちは相変わらず順番に乳脂を注いでいる。ときどきラマが前を歩き、彼らを引き連れて読経し、乳脂ランプをかきたてて明るくしていく。宮殿内はほの明るい。まるで仏様の後光のようだ。ここで私は深く揺り動かされた。こんなに敬虔な人々を見たことがなかった。太陽に最も近い場所だからかもしれない。天国がここにあるのだ。彼らは仏に最も近い人々だ。彼らの前では、私の俗世間でのいわゆる悲哀や不愉快さなどすべて取るに足らない恥ずかしいものでしかない。彼らの前では、自分のちっぽけさと俗っぽさに気づかされる。

  もしいつか私が最後に帰る場所を選ぶことができるとしたなら、私は彼らといっしょに、金色のルンタの中を進み、霊魂が最も純粋でいられる土地を探し出したいと思う。

written by 阿依黛
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  私は人波とともにひとつひとつの寺院に入っていった。彼らはどの仏像の前の乳脂ランプにも乳脂を注ぎ、注ぎながらブツブツとお経を唱えている。そのあと手にした1毛ぐらいの札束の中から一枚を抜き出しそこに置いた。彼ら自身は決して裕福ではない。着ている服はすでに古び、ここへ来るときの道中のつらさもまだ癒えていないのだが、自分の手の中の多くもないお金を寺院に置いていく。ここは彼らの心の中の聖地だから。彼ら遥か遠い地方で来る日も来る日もここに来ることを待ち望んでいたのだから。大殿の中には一人の年長のラマが見える。お経を読む位置に坐って経文を見ている。このラマたちは私にとって最も神秘的だった。残念ながら、私はチベット語の経文が聞き取れない。ただすれ違うときに微笑んで会釈するだけだった。彼らは一目で私の未来を見通すのだろうか。私がどこから来たのかわかるのだろうか。でも私は信じたい。ラマたちの慈悲の眼差しで洗礼を受け、私はきっと幸運を授かるだろうと。

  一群の人々がひとりの長いお下げ髪の老女の後についてお経を読んでいる。殿門を出ると、左側の壁には巨大な絵がかかっている。絵はとても抽象的で、私には理解できない。ただその老女が絶えずチベット語でその真ん中の絵を指しながら大きな声でお経を読んでいるのだけはわかる。表情は厳かで恭しく、多くの人が手を十字に合わせて祈っている。どうしてかわからないが、まるで彼らが私の見えないものを見ているように思えた。あるいは霊魂なのか。ここまで思い至ると、少し……急いでその場を離れた。

written by 阿依黛
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  ロブリンカは18世紀の中ごろに建造された、歴代ダライ・ラマの夏季居住用の宮殿だ。占有面積は非常に大きい。迷宮のような場所を通り抜けて行くと、ダライ・ラマの貴族生活を想像することができる。“ダライ・ラマ”はモンゴル語とサンスクリット語の音訳で、“徳智が海のように深く広く何でも受け入れてくれる上師”という意味だ。チベット伝来の仏教においては、観世音菩薩の生まれ変わりだと考えられている。そういうわけなので彼らの生活は皇家のように贅沢豪華であるもの理解できる。

  植物には植生分布というものがある。海抜高度が高くなればなるほど樹木のたけが低くなる。しかし、ロブリンカでは天に向かって聳え立つ古木をどこででも見ることができる。薄青色の空の下、白味がかった枝葉はちょっと見には、霜が下りているように見える。冬場に夏宮を通るのはちょっと季節に合わない。からだに感じる冷たさはラサの寒さを思わせる。かなり遠くまで歩いて行くと、やっと何人かの人に出会った。彼らはマニ車を回し、六字真言を唱えている。低い窓枠に腰掛け、太陽の日差しを浴びながら居眠りしている老人をたまに見かける。おそらく参拝の道を歩き疲れてのことだろう。しばらくの間休憩し、少し両目を閉じて夢でも見ているのであろうか。夢の中では彼らが追い求める来世の幸福の園のことを見ることができているのであろうか……

  ラサの至る所でチベット族の宗教に対する敬虔さと熱心さを感じることができる。最も忘れられないのは、セラ寺での感動だった。セラ寺は1419年に建立された。言い伝えによると山の麓にセラと呼ばれる野バラが咲いていたので、それに因んで名付けられたということだ。その寺はラサの北方郊外のセラウズ山の麓に、密でありながらゴミゴミせず、雑然とではあるが乱れずに建ち並んでいる建築物群の中にある。ここに参拝にやって来る仏教徒たちは非常に多いが、中には年取った人もいて、目もはっきりと見えず、足腰も弱っている人もいる。足を引きずりながら家族といっしょに彼らの心の中の至上の神様を参拝しに来る。

written by 阿依黛
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  ロブリンカへ行く車中。運転手はとても賢そうなチベット族の若者だった。肌は高原特有の黒さで、目は大きくて力強く、髪は少しカールしていた。小さい頃観た映画“農奴”という映画のチャムパを思い起こさせた。

  彼の中国語はあまり流暢ではなかったが、私たちと話すのには十分だった。チベットの老人は夜中の3時に起きてマニ車を回しているだとか、遠くから来る人たちは1年間養った牛を殺し、道中それを売り歩きながらラサ巡礼の旅費にあてるのだとか、彼らチベット族の男たちが好むチベットの刀は……などといった話を聞かせてくれた。言葉は飾り気がなく素朴で、私が他の土地で出くわしたタクシー運転手の如才なさやずる賢さなどは全くなかった。

  彼は私がポタラ宮殿の入場券を100元で買うという話を聞き、びっくりしていた。彼らはたった3元で入れるというのだ。車を降りると、券を買うときには絶対付き合ってやると言ってくれた。そうやって買えばずっと安く買える、と。彼の親切心には抗えず、彼に買いに行ってもらった。彼は入場係に私が買わないのがバレるといけない、と言って、わざわざ私を車で待たせておいた。実はすぐに券は買えても入場できないことがわかったのだが、彼の素直でまじめで義理堅いところにはほんとうに感動させられる。手に彼が私に買ってくれたチベット族専用の小さな券を持ち、私はお礼を言った。彼の車が遠くに走り去るのを見届けてから、入場口へ向かった。私が入れてもらえないところを彼に見られて、戻って来てケンカでも始まるとまずい、と思ってのことだった。やはりもう1度旅行客専用の券を買わなければならず、それでやっと入ることができた。しかしあの愛すべきチベット族の友人がこの冬の異郷の地で私にくれた太陽の日差しのような友情は、心の中をとても温かくしてくれた。

written by 阿依黛
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  紅宮にはまだたくさんの文化的典籍や各種の仏像、仏画、法器、供器など、珍しいものがたくさんある。紅宮は内容豊富な宝庫なのだ。そこの壁画はすべて金銀宝石から造られた顔料で描かれている。例えば黄色は黄金、白は銀、赤は紅珊瑚と宝石の粉、緑はトルコ石……きわめて豪華で風格があり、世間ではなかなかお目にかかれないものばかりだ。そして100年以上も保管してある仏画は、どれも明清時代のチベット各地の名画家の作によるものだ。どれを取ってもかつてのチベットの繁栄をしのばせる。

  ラマのストゥーパの金の頂は日差しの下、目を奪うほど色鮮やかだ。まちまちな高さの金の頂の中に立つと、遠くにチベット病院が見える。そこにはかつて川が流れていて、その川の水は病を治す力があったそうだ。以前活仏とラマが飲む水はすべてそこからポタラ宮殿に運ばれたのだという。ここからはさらに、ラサ全体が見渡せる。周りはすべて山に囲まれ、褐色の峰はどれも高原らしい険しさを持っている。山上にはかすかに寺院や尼僧の庵が見える。そんな高いところに彼らがどのようにして登ったのか想像もできない。チベット族は特に苦難を耐えしのぶ民族だ。もしマニ車が来世のよき日をもたらしてくれるというのなら、私は彼らに輝かしい未来が訪れることを心から願う。

  白宮は東の方にある。歴代のダライ・ラマがそこで寝起きし、重大な催しが行われた場所だ。その中の日光殿は冬宮とも呼ばれる。ここは冬には太陽の光に満ち溢れているので、比較的暖かい。夏には彼らはロブリンカで過ごす。そのため夏宮とも呼ばれている。山を下りるときはだいぶ楽になった。何段もの階段を歩いていると、空に群れている鳥たちが白宮の屋根の周りを飛んでいるのが見えた。何という鳥だかわからないが、高原の冬を生きぬいている。私はカメラを出して鳥たちを写そうとしたが、レンズを向けると飛び立って行ってしまい、私が動くのをやめると、また舞い戻って来る。何度かそんなことを繰り返すと、こんな小さな動物にも知能があるのではないかと思わざるをえなかった。

written by 阿依黛
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  ポタラ宮殿は山沿いに建っているので、そこへ行くには少し高いところまで登らなければならない。やはり高原だけあって、歩くのは骨が折れ、疲れやすい気がする。私は地元の老人と同行した。老眼鏡をかけている彼は、学がありそうに見える。前歯が1本なく、かなりの年齢に違いない。とても優しい人だ。どう行ったらわからなかったので、彼に道を尋ねると、私の質問の内容にだいたい察しがついたようで、身振り手振りを交えながらいっしょについて来ればよい、と私に言ってくれた。彼はチベット語を話し、私は中国語を話すが、言っていることは同じことだった。それは「疲れた。」という言葉だった。喘ぎながらかなりの時間歩いた。老人は別の道から降りて行かなければならなかった。彼は右側を指差して、やっとのことで中国語を発した。「あそこだ。着いたぞ。」そのあと私に向かって手を振りながら別れを告げた。ラサで出会う人々はみなとても親切だ。彼らの多くは中国語が話せないが、私が尋ねるといつも、彼らはできる限り助けてくれる。ラサが気に入った理由を挙げるとすれば、それは最も純朴な彼らが、世界最後の純粋な人々が大好きだということだ。つまり、彼らの善良な真心と飾り気のなさが気に入ったのだ。

  ポタラ宮殿は白宮と紅宮の2つに分かれている。私が最初に行ったのは紅宮のほうだ。紅宮は神仏を祭り宗教儀式を執り行う場所だ。宮内には8つのストゥーパがある。なかでも5世ダライ・ラマと13世ダライ・ラマのものが最も豪華だ。ストゥーパの建造には大量の黄金と宝石が必要だった。こんなにたくさん保存状態のよい貴重な珍宝を見たのは初めてだった。まさしく至宝を見た感激であった。チベット仏教でいちばん印象深かったのは彼らが女神を祭っていることだった。女性の地位が比較的高いという証しでもある。紅宮には完全な仏教経典が保存されているとも言われている。唐僧が天竺からお経をもたらしたとき、一部を失った。そのためチベット族の仏教経典は漢族のものより完全なのだ。これはポタラ宮殿のチベット族のガイドが教えてくれたことだが、実証はまだされておらず、真偽の程は定かでない。彼はまた、8カ国軍と日本人はチベットに侵入しようと企てたが、当時のラマが法力を発揮し幾日幾晩も念仏を唱えた結果、悪者たちがやって来ることはなかった。それでラサは平和なままだったのだ、と教えてくれた。この神秘的な土地では、ほんとうに神のご加護があったのかもしれない。彼らは空にこんなにも近く、天国に人が存在するとしたら、きっとそれはラサのことだろう。

written by 阿依黛
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  日差しの中ひとすじの陰りもないラサを歩いていると、心の中も格段に明るくなってくる。俗世間が覆い隠している暗い影の部分は、この高原の透き通って純粋な空気の中では雲散霧消してしまう。ずっと昔からあこがれていた神秘的なポタラ宮殿は吸い寄せられるほど青い空の下にあった。参拝にやって来るチベット仏教徒は山の麓に建てられた雄大壮観なポタラ宮殿に向かって五体投地して祈る。彼らの目は美しく明るく、敬虔さと一途さで輝いている。

  どれだけの年月回されてきたかわからないマニ車(僧院本堂にあるマニ車は、「マニ・ラカン」といい、高さ2〜3メートル、直径3〜4メートルの大きなものまである)は、参拝者の手の油が染み込んで黄金に照り輝いている。チベット族は奴隷制社会から直接現代文明社会に入ってきたので、鉄道はもとより車も走っていない。だから彼らの大多数は未来への希望をこの回るマニ車に託す。ラサの至るところでこんなに多くの人たちがマニ車を回しているのも理解できなくはない。私は彼らの後についてマニ車を回し、口の中ではブツブツと真言を唱える。「オムマニペメフム」。この六字真言は六道衆生を解脱し、六種の煩悩を除き、六種の善行を修得し、六種の仏身を獲得し、六種の智恵を生む、ということを表している。回すときは必ず時計の針の方向に回す。地球が太陽の周りを回る方向と同じだ。寺院のマニ車と手に持つマニ車は同じ原理だ。どちらもそれでお経を回すのである。手に持つマニ車はどれも中にお経が入っている。チベット族の多くは字を読めない。それでお経を中に入れて回し、1回回すと1回お経を読んだことになる。ほんとうに想像もできないことだが、ゆっくりと聖地への道を進む途上、チベット族はいったい何回回すことになるのだろう。計算すれば、天文学的な数字になるだろう。彼らはこのように信念と理想を胸に、雪の積もる高原から途上ずっと祈りながら聖地ラサを目指すのだ。

written by 阿依黛
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  大昭寺はラサで最も古い建物だ。現在に至るまで1,400年の歴史がある。中には当時の文成公主が長安から連れてきた職人たちに建造させた釈迦牟尼十二歳寿量身の純金の像が祭られている。そのため大昭寺はチベット仏教徒の心の中でこの上ない地位を占めている。八廓街は当初、毎日各地から参拝にやって来る人々が日々歳々と大昭寺を巡りマニ車を回し、出て来る街道であった。寒い冬でも敬虔な信者たちが五体投地して祈る。ある者はからだの下に背丈と同じくらいの長方形の綿の敷物を敷き、一度拝むごとにそれを前へ押し出し、続いてまた仏に向かってひれ伏す。そのため寺院の前ではそこらじゅうで敷物を引きずるズルズルという音がする。彼らの中にはとても遠い所からずっとマニ車を回し五体投地してラサまでやって来た人もいる。到着までの時間は1年半とも言う。真っ暗な中彼らの顔ははっきりとは見えないが、こんなに忠実な人は表情もこれ以上ないほど神聖で純潔な輝きを持っているのではないかと、私には思えた。

  広場の横のほうには10歳過ぎぐらいの何人かの子供たちが数十m離れたところに立っている。目を閉じて手を差し出し、壁にあいた3つの穴に向かって一歩一歩歩いていく。彼らの楽しそうな騒ぎ声が私を引きつけた。彼らに何をしているのか尋ねると、目を閉じて歩いて行って、指を真ん中の穴に入れることができた人は、死後あの世でお父さんやお母さんに会えるのだと教えてくれた。指を入れることができた子は大声で喜び、「わぁ、ボクは死後お父さんお母さんに会えるぞ。」と叫んでいた。彼らは私にもやってみるように促したが、私は結局指を入れられず、死後は両親に会えないという結末になってしまった。子供たちはちょっと残念そうに私を見、「明日また来てやってみてごらん。当たらないとも限らないだろ。」と慰めてくれた。私は笑った。かわいい子供たちだ。もし天国を目にすることができるのなら、私はここが天国であってほしいと思う。あなたたちといっしょに、素直に楽しみ、天真爛漫に過ごす。ここが私の求めていた理想の世界だ。

written by 阿依黛
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  私が到着したその晩は、ちょうどチベット仏教の燃灯祭だった。ツォンカパという仏教学者を記念したものだという。彼はチベット仏教の最大の教派ゲルク派を創設したので、仏教徒たちは彼を非常に尊敬し、ツォンカパの命日をチベット仏教の祝日にしたのだった。この日が来ると、チベットの仏教徒たちはどの家でも窓の下枠の三角形のランプに乳脂で火を点すのだ。八廓街じゅうのチベット住民が黄金色の灯りを輝かせると、まるで神話の世界に入り込んだようだ。街じゅうが大昭寺(=ジョカン)を取り囲んでマニ車を回す人でいっぱいになる。耳元には彼らの何を言っているのかよくわからないボソボソお経を読む声ばかりが聞こえてくる。私は不思議な信念に導かれて彼らの元へ向かった。手には今買ってきたばかりのマニ車が握られ、口では今店のチベット族のお姉さんに習ったばかりの六字真言を唱え始めていた。「オムマニペメフム。」私は前世どこにいたかは知らないし、どのようにして輪廻したのかもわからないが、今夜だけは私を揺さぶる力を感じることができた。ある思想が浮かんで私に語り掛けた。「忘れなさい。俗世の一切の苦痛や欲望を。」と。

  街には私が買った草のようなものを売り歩いているおばあさんがいつもいる。私は初めその使い方がわからず、チベットの薬か何かだと思っていた。彼女たちは中国語もできない。ただ私に向かって「阿弥陀仏」と唱えつづけた。長い間身振り手振りで話してもわからなかった。ちょうど街のほど近いところに秩序を維持する警察があったので、そこへ行って尋ねると、やっとそれが焼香に使うものだとわかった。人の群れについて行ってみると、いくらもしないうちに大昭寺にたどり着いた。広場の前の大きな香炉では次から次へと人々が焼香していた。明るい炎が天に昇り、たいへんな壮観を呈していた。

written by 阿依黛
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  街には“淋浴(=「シャワー」)”の2文字の看板がたくさんある。これはわかりやすい。風呂屋にちがいない。しかしある場所では“イスラム淋浴”と書いてある。私は興味を引かれ、これはどんなところなのだろうと思っていた。やっとのことで他の場所でこの文字の後に“木桶貸します”と書いてあるのを見つけた。これでわかったような気がする。三毛(=台湾の女流作家)の≪沙漠観浴記≫のことを思い出さずにはいられなかった。しかし、私には彼女のような度胸もなく、入って試してみる勇気もない。民族の習慣に背いたという汚名を着せられ、イスラム教徒にコテンパンにやられて一巻の終わりにならないとも限らない。それに不細工なことになるとカゼをひくかもしれない。高原ではカゼは禁物だ。そう、どうやら誰でも三毛になれるというわけではないようだ。少なくとも私はダメだ。

  学校が終わった。天真爛漫な子供たちの集団が笑顔で大声を響かせてにぎやかに私の前に現れた。どの子の格好もほんとうにとてもかわいい。私はその中のひとりに八廓街へはどう行くのか尋ねた。すると4,5人の子が道を教えてくれた。こっちが近いと言う子もいれば、あっちが近いという子もいる。ついには「おばちゃん、僕の家近くだからついて行ってあげるよ。」と言ってくれる子も。私はうれしくて「ハイハイ、ありがとう。」その子の名はドゥンジュと言った。(後に書物で調べてみると、事業が成る、といった意味のようだ)おそらく10歳ぐらいだろう。5年生で背は高くなく、目鼻立ちはインド人に似ている。とても凛々しい中流家庭の男の子だった。彼は私を連れてチベット族の住宅地を通り抜けた。どれも特徴のあるチベットの民家だった。彼は言う。「これはボクのおばあちゃんの家で、あれは先生の家だよ。」途中ずっとその小さな口は休むことを知らなかった。私はこんなに素直に私を信頼してくれたことに感動しそうになった。そして尋ねた。「いちばんほしいものは何?」彼は言った。「夜に光る蛍光棒だよ。」私は急いで街でそれを買い彼にさしだした。その子は満足して笑いながらスズメのように飛び跳ねた。その明るい賢そうな眼差しは子供ならではの純真さで輝いた。別れ際彼は何度も私に、必ずバッグは目の前に置くように言いつけた。コソ泥の被害がひどいのだそうだ。ほんとうに気の回る坊やだ。

written by 阿依黛
http://wind.yinsha.com/letters/show.phtml?aid=2004010612542301

参考サイト(画像と用語の解説を参考にさせていただきました)
http://www.tibethouse.jp/home.html


  ラサを訪れたことはなかったのだが、初めて来たような気がしない。多くの人が恐れる冬の高山病の症状もまだ出ていない。予約していたホテルを見つけ、手続きも終わると、もう夕方の5時過ぎだった。陽光は依然キラキラと輝いていた。カウンターのサービス係は私と同じように鼻の高いチベット族の娘だった。どうりで成都である人が私のことをチベット族ではないかと言ったが、そう言われてみれば彼らとはほんとうに似ている。もしそこでしばらく滞在して、皮膚を高原焼けさせて、名前をチュオマにでも改めれば、疑う人もないだろう。

  私は興奮で休むことも忘れ街に繰り出した。ここに着いてすぐ行きたい場所をひとつひとつ書き留めておいたのだ。幸いラサはそれほど広くなく、歩いて行ける所ばかりだ。街には時々マニ車(=真言を唱えながら手で回す。お経「スン」が巻いてある)を回す老人が私の傍らを通り過ぎて行く。私は1軒1軒の店をウィンドーショッピングしていた。乳脂の専売店では分厚い大きな塊の白い乳脂が小さな店の中に山積みにされていた。時々客が来てその大きな塊を買って行く。私は物珍しさで店のおばさんにこれは何に使うのか尋ねてみた。彼女は笑いながらずいぶん長い間身振り手振りで教えてくれたが、私にはわからなかった。とうとう私は、これは食べられるのかどうか、と尋ねたところ、彼女は口のところを指差して言った。「食べてごらん。」店のおばさんはとても長いお下げ髪で、三つ編みにしていた。当地の多くのチベット族と同様、内側には民族衣装を着て、外にはダウンの防寒服を羽織っていた。彼女の目は大きく、若干くぼんで、鼻は高く、よくよく見るとけっこう美人だ。チベット族は大部分がこういう感じで、異国情緒を感じさせる。

written by 阿依黛
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冬の暖かな午後、私がラサへ飛び立つとは誰も予想もしなかっただろう。10,000mもの上空からは真っ白な雪山が雲海の中に聳え立って、青い空に突き刺さり、雄大な景色をかもし出している。空の色は深い青色で、純粋に天国を思い起こさせる。ゴンガ空港は陽光で満ち溢れ、はっきりと春が感じられる。ここに来る前は重装備の防寒服に身を包んでいたが、このときばかりはこんな重装備は不必要だった。

  ゴンガからラサまで100km近くの道のりだ。車は公道を進む。ヤルツァンボ川の流れが見える。やさしい気配はあの娘の家の雰囲気にも似ている。空は水面にキラキラと清らかな青色を映し出し、雪山の水はそのままの淡さでゆったりと高原の日差しの下をポタポタと流れる。日差しの暖かさは高山と峻嶺を包み込む。時おりチベット族の民家が見える。また青、白、赤、緑、黄の順に並んだルンタ(=経文を印刷した魔除けと祈りの旗。別名「タルチョー」)が風にはためいている。経文や六字真言を刻したマニ山は厳粛な雰囲気で道端に静かに立ち並ぶ。私の心は未だかつて静けさと冷静さを感じたことなどなかったし、ましてや思想などは持とうとも思わなかった。この聖地は落ち着くところのない霊魂を呼び起こす力を持ち、人の塵埃で覆われた精神を洗い清めることができるようだ……

written by 阿依黛
http://wind.yinsha.com/letters/show.phtml?aid=2004010612542301

参考サイト(画像と用語の解説を参考にさせていただきました)
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  彼女は冷たく一杯の水を差し出した。「飲みなさい。山を下りたらのどが乾かなくなるわ。」水は清く澄んだ波を浮かべていた。これが忘川の水か?

  私は一息に飲み干した。ありがとう、孟婆。これから私はお前を失ったことがどれだけ大きいことか永遠に知ることはない。

  涙が哀愁に満ちた頬を流れた。彼女はやさしく私の胸に顔を寄せ無理やり笑った。「許してあげるわ。私はここで待っています。どの輪廻のときも私は許すことができるのよ。」

  水沙はそっと唇を開いた。ひとすじの涙が口の中に隠れていった。そして彼女の目は生気を失った。蝶のように。彼女は昔のことはすべて忘れたのだ。私はうなだれ、ずっと微笑んでいた。そうこれが孟婆湯だったのだ。水沙、お前の涙なのだ。

  私はあの橋を渡りかけた。その名前を覚えていた。“奈何(=どうしようもない)”。後ろには島がひとつある。島にはごく単純な形の山がある。山の上には氷のように青い瞳女がいる。絶世の美女だ。彼女とは永遠に千年の悲しみを乗り越えることはできない。

  私のからだに1滴の娘の涙が残っていた。それは私にとっての解毒剤だ。私は明々と明かりが点る都市に向かって歩いていく。水沙、いつか私はこの涙を飲んで、次の輪廻でまた、私たちは愛し合うのだ。

◇“孟婆”についてはこちらのサイトに説明があります。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/8809/chinateastory/12gatsu.html

written by 羽虎
http://wind.yinsha.com/letters/show.phtml?aid=2004010822360192
  銀白色の海はうねっていた。水沙は死んだように静かになった。以前の骨身にしみるような優しさも、その瞬間、私の中から跡形もなく消え去っていた。私は昔の自分に戻ったようだった。自信満々でうぬぼれ、思いやりがなく、何にも束縛されない。

  私のそばの娘は、憂いを含んだ氷のように青い瞳で、突然ボソボソと笑い始めた。表情は美しく海底の火のようだった。私はとうとう思い出した。過去のすべてを。涙が彼女の美しい顔を伝ってやむことがない。しかし、今度つらい目に遭うのは私だった。千年経った。私は自分をコントロールできなくなった。

  千年経った。私はここであなたがどこかに輪廻転生するのを待っています。どこに生まれ変わっても心からあなたを愛します。でもあなたはいつも私から離れて行きます。来世もそしてその次の来世も。いつも私はあなたを引きとめられない。自分自身をも押さえられない。もしかしたら愛情はほんとうに単純なゲームで、上達するのはまだまだ難しいのかもしれない。

  千年経った。私の追い求めてきたのはただの物語だった。私はずっと蛾だった。私の愛は宿命のさなぎ、ずっと蝶にはなれなかった。彼女の笑顔は痛ましいほど美しかった。目の前の娘には以前の無邪気さと妖艶さはなかった。ただ千年の年を過ごして老いさらばえ、悲しみに満ちていた。これこそが私の千年の罪なのだ。

  水沙……私はただ黙っていた。千年間変わらない銀白色の海が狂ったように波立っていた。遥か遠くの都市の明かりは今まで通り明々と輝いていた。すまない。私はまぶたを閉じて笑った。すまない。

written by 羽虎
http://wind.yinsha.com/letters/show.phtml?aid=2004010822360192
  記憶だけが彼女の唯一の傷跡だった。私の仕事は彼女を癒す助けをすることだった。記憶がなくなり、幸福が訪れた。すべては真新しかった。そうでなければ神さえ彼らにチャンスを与えることができない。過去を背負った人間には未来はないのだ。

  私はまだ私の罪を覚えている。これは蝶が私に与えた最後の懲罰だ。彼女はまだ私を愛していた。そうでなければ忘れることを選んだはずがない。彼女は私を見捨てたのだ。

  水沙が笑った。「愛情なんて単純なゲームよ。上達しようと思ってもなかなかだわ。」

  そうだ!水沙。蝶の一生の間、私たちは愛し合った。ひとりの人を愛するのは、一生の時間をかければ十分だ。私たちのように。私は別れようと思う。遠くの町に行ってやり直すのだ。私はもう一生の時間をかけてお前を愛した。後の時間は自分の時間にしたいと思っている。

  私は彼女の美しい顔を見た。表情は決然として平静を保っていた。決別する勇気があるのだから、残忍な行いをする勇気もある。

written by 羽虎
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  三

  私は弱りきってフラフラと飛ぶ蝶に出会った。彼女はもう過去のすべてを忘れ、ただぼうっとして私を眺めていた。彼女はかつて人の世で私の妻だったのだ。私の霊魂が抜けて行くとき、彼女の恨みと悲しみであふれる目を見た。私の死後、彼女はたったひとりですべての現実を受け入れていかなければならなかった。私は黙ったまま近づいて行った。力いっぱい彼女の年老いたからだを抱きしめた。彼女はこんなにも弱々しくなっていたのだ。彼女の目には生気がなく、少しの痛みもなく、責めることもなく、思いもなかった。彼女が私の死体を抱きしめたとき、目には測り知れない深さの恨みが込められていたのを忘れてはいない。昔私が彼女に残したものを思い出したくはなかった。それは彼女にとって受け入れられないものだとわかっていたから。

  私は前にも言ったようにわがままだ。私はほんとうに人の世のすべてを受け入れたくないのだ。蝶よ、すまない!彼女の両目の空洞が私を見ている。雪のように白い髪を空中でなびかせている。背後には果てしない銀白色の海が広がっている。彼女の顔は以前のように美しかった。ただもうすでに私のことは忘れていた。彼女は苦痛も忘れていた。そして私の罪も。私はうなだれて、狂ったように笑った。魂がゆらゆらと落ちて行くのを感じながら。

  蝶はぼんやりしながらあの広い橋を渡って行った。思ったとおり後戻りもしなかった。忘れてしまったその瞬間から、彼女はもう幸福だった。

  私は原野に立っていた。蝶の魂は雪のように冷たく、すでに右手を失っていた。

  私は突然蝶がもう年を取ってしまっていることに思い至った。私はどれだけの間水沙を愛していたのかがわかった。人の一生分ぐらいだった。

  妻にすべてを忘れさせてくれてありがとう。これは彼女の最高の寛大さだった。私は水沙の柔らかいからだを抱きしめていた。

written by 羽虎
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